2011年8月25日木曜日

斜めからみる「日本のポストモダン教育学」(3/完)

以前、エントリーした論考ですが、まだ続きがありました(こちら)。少し中途半端に思っていたのですが(^_^;)

ポイントと思われる部分を抜粋します。

佐々木による職業教育、なかんずく公共職業訓練の、メインストリームの学校教育に対する位置づけは、コミュニタリアニズム、現代的徳倫理学の、リベラリズムに対する位置取りとのアナロジーにおいて考えることができるのは明らかだろう。それは近代を批判しつつ、そのうちに踏みとどまり、その外側に脱出しようという夢をみない。
佐々木の著作を今読む者は、20年以上、せいぜい臨教審の時代まで、「生涯学習」が叫ばれはじめて頃までの仕事であるにもかかわらず、それが現在の職業教育、さらには教育全般についてもなお通じうる問題提起をしていることに驚くだろう。しかしそれは同時にまた「ポストモダン」の問題でもあることに気づく者は、どれくらいいるだろうか?

しかしながらこの今日の教育社会学「ブーム」の射程は、じつのところ森と佐々木の切り開いた地平をさほど出てはいない。

学校教育は必ずしも、イデオロギー的自己正当化に特化した無用な存在ではなかったがゆえに、ネオリベラリズムの影響下での部分的脱学校化――公教育の特権剥奪、相対化は、社会全体の脱学校化というよりは、公的統制のもとにあった学校教育の規制緩和と民営化を促進することになった。規律訓練の暴力性は、「選択の自由」の大幅な導入によって、ところによっては緩和されたかもしれないが、多くの場合それと対になっていたはずのケア、後見的保護の後退という副作用を伴わずにはいなかった。
じつのところ上のような路線は、完全雇用、労働市場における売り手市場基調がつづくかぎりにおいては、それほど深刻な副作用を生み出しはしなかった。規律訓練とケアが「民営化」されていこうとも、その分を「自己責任」でフォローする余裕が人びとのうちにあるあいだは。

しかし、「90年代以降の長期不況がこうした余裕を削り取り、潜在していた問題を顕在化させていってしまう。それはさしあたりは苅谷剛彦による「ゆとり教育」が階層間での学力格差、さらには意欲格差(苅谷の印象深い用語法によれば「インセンティブ・ディバイド」)をもたらしつつあるのではないか、という問題提起に典型的なごとく、「格差」の問題としてまずは認識された。つまりは、有用な財、資本としての教育、教育という富の分配の不平等の問題として。
しかしながら「意欲格差」はすでに富の格差とは別次元の問題へと踏み込んでいることはいうまでもない。つまりそれは、人びとに対してさまざまな資源や機会をどのように分配するか、つまり人びとの置かれた外的環境にいかに介入するかのみならず、人びとの性質と能力をどのように規律訓練し、人びとの生に配慮するか、つまり人びとの身体と精神そのものにどのように介入するのか、の問題でもあるのだ。

今日の教育問題の難しさが最後に指摘されています。
ここで言われるように、90年代以降「格差」が問われて久しいですが、それが別次元の問題となっており、一層複雑な状況になっているのです。ただ、森や佐々木の仕事に戻ってみることで、逆に見えてくるものがあるような気がしますが、いかがでしょうか。

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