2010年10月31日日曜日

日中関係、どうなる?

また、廊下外交だそうです、それも10分間。
ウチの妻が、朝、子どもを集合場所まで送ってくる帰りに、近所の奥様方とおしゃべりしてくるのなど、それより長いですよ。

テレビのニュースなどによると、やはり原因は前原外務大臣のようですね。度々の発言を聞いていれば、そりゃ、中国は気分が悪いだろうと思います。
ここまで事態がこじれてきているのに、自己の主張を頑として曲げない外務大臣って、何のために外務大臣をやっているのか考えていないんじゃないか、そもそも外交が分かっていないんだろうなって思います。こりゃ、まずいかなぁってことくらい、素人でもわかりますよ。
いつまでこのままでいるつもりなんですかね。まさか、次のAPECまで持ち越すなんてこと、・・・・・・あるかも。

前原さん、中国と本気で喧嘩するつもりなんですかねぇ。まぁ、ここまでの発言は、失敗に次ぐ失敗ですけど、いい加減、現状をきちんと認識しなおして、問題は正すべきだと思います。いくら日本国民がアホだからって(いゃ、アホは私だけですけど)、ここまで来たら、ごまかせませんから。

そんな偉そうなこと言える立場でもないですけど、私みたいな人間にまでそう思われるようじゃ、政治家、おしまいですって。少なくとも外務大臣はやめるべきだと思います。

2010年10月30日土曜日

『週刊金曜日』2010年10月29日 第821号(その2)

台風が直撃しなくて、ホッとしています。予定していた模試は延期になりましたが、部活もできないので、結局久しぶりに休日になったんですが、気圧の関係か、頭が重くて、午後は寝てしまい、せっかくの休日なのに、何もできませんでした。そこで、あまり硬い話題ではなく、ホンワカした話題でいきます。

 「知っているようで知らなかったお米のはなし」5で、「「はじめちょろちょろ」で米を炊く」という記事がありました。執筆されている佐藤洋一郎氏は昔静岡大学農学部にいらしたので、何かの時に数回お見かけしたことがあります。現在は総合地球環境研究所副所長、教授でいらっしゃるんですね。

「はじめちょろちょろなかぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」とは、うまい米の炊き方として有名ですね。昔、米をマキを使ってカマドで炊いていた時のコツなわけですが、私も若い頃は野外炊飯をよくやりましたので、この方法がうまい米の炊き方であることは、身を持って経験しています。
ただ、この言葉、実際にやってみないと意味がよくわからないと思います。「はじめ」っていつのことか、中ってどのくらいの状態かなど、慣れていないうちは必ず失敗するでしょう。
そもそもマキで火をつければ、ガスなどのように急に強い火になることはありませんから、これが「はじめちょろちょろ」なんですが、現代人はそのへんのことがわからないので、、出だしで失敗します。
マキは火がつき始めれば、強い火力になりますので、そこで一気に沸騰させて、均一に熱を加えないとうまい飯にはありつけません。これが「なかぱっぱ」です。
「赤子泣いてもふた取るな」は、つまり蒸らしが大事ということです。ここで余熱で余分な水分を飛ばすと、ふっくらした美味しいご飯が炊けるのです。

新米が出ている時期ですので、野外炊飯は無理にしても、土鍋などの厚手の鍋で炊飯してみると、本当に米ってうまいと感じることができると思います。あとは大根の味噌汁と漬物があれば何もいうことなしです。

しかし、日本人の米の消費が減っています。少し前に授業でこの問題を扱ったときに、生徒にお米をどのくらい食べるか聞いてみたところ、一日三食のうち、米を一度も食べないときが結構あるという生徒がクラスの半分ほどいたのには驚きました。  一体何を食べているのかと思ったら、パン食だと言うのです。それも女の子だけではなく、男の子の中にもそういう子が何人かいたことにさらに驚きました。「おじいちゃん、おばあちゃんはお米じゃないと絶対ダメっていうけど、私たちはお米がなくても平気」って言っていた女の子がいましたが、これでは米の消費が減るのも仕方が無いですね。

ただ、おもしろいのは、「じゃ、お米がなくなっても良いね」という私の発言には、反対するんです。「自分はお米を食べなくてもいいけど、日本人の主食はやっぱりお米だから、なくなったら困る」というんです。

まあ、私自身、食事=お米の人ですから、パンで食事が終わるなんてありえません。我が家の小学一年生は、朝パンを食べていることも多いのですが、学区のなかでは一番遠いので、お米を食べたほうが良いのにと思っていますが。
私にとって、パンはおやつですね。お米を食べて、プラスアルファで、子どもが残したパンなどを食べるという感じです。だから、この間も遊びに来た卒業生に「先生、太った?」って言われてしまうんですけどね(笑)

2010年10月29日金曜日

『週刊金曜日』2010年10月29日 第821号(その1)

特集は「FREEビジネスの危うさ」です。

何故、Googleは無料(フリー)なのかについて、なるほど、そうだったんですね。確かに検索履歴や閲覧履歴などから、その個人の嗜好(思考も)がわかりますね。うまい手を考えたものです。

しかし、そうは言っても、ホームはGoogleですし、当然検索もGoogleです。このブログだってそうですし、Gmailはもう手放せません。
「自分の情報を差し出している」と言われるとそのとおりなんですが、便利なものは仕方が無いですし、今さらGoogleがない生活は考えられません(ちょっと大げさかな)。

確かに、検索して変なものが上位に来ることもありますが、そもそもネット自体がメデイアリテラシーの対象ですので、注意を要するものです。しかし、そのことを大前提にしていれば、多少の情報提供は仕方がないとするしかないでしょう。Googleのシステムを考案した方への敬意だと、自分に言い聞かせて納得してしまいました。少なくとも、一ユーザーとしては、これくらいしかできないでしょう。

「ただより高いものはない」

この言葉、頻繁に耳にするものですが、この言葉くらい、「後悔先に立たず」の言葉はないでしょう。何せ、人間はなかなか懲りないですし、自分のことを考えれば、やはり「FREE」とか「割引」とかの言葉に弱いですから。

2010年10月28日木曜日

読書週間

昨日27日から11月9日まで読書週間です。今年は国民読書年なんだそうです。国民読書年って何だ?と思って調べたら、何でも、「文字・活字文化振興法」の制定・施行5周年なので、2010年の今年がそうなんだそうです。

ただ、「大人の4人に1人が本を読まない」という統計が発表されている現在、この国民読書年ってどれだけ浸透しているのか、「文字・活字文化振興法」でどれだけ活性化しているのだろうかと疑問に思います。

しかし、今年は「電子書籍元年」などと言われているように、電子書籍が大変話題になっています。『週刊ダイヤモンド』2010年10月16日号でも、大々的に電子書籍の特集が組まれていました。電子書籍によって、幾らかは読書する人間が増えるのでしょうか?
 確かに、入手が楽になりますし、端末一つで、いろんな本が読めるというメリットがありますが、今の私にとっては、まだあまり触手が動きません。

私としては、定期的に本屋に出かけて、一通りぐるっと見て回るのが楽しいのです。それほど買う気があって入るわけではないときでも、いつも行く馴染みの本屋でも、行くたびに意外と新たな発見があるものです。それは、新刊本のときもありますし、少し前に刊行された本のときもあります。本屋は、その一覧性こそがメリットなのでしょう。電子書籍では、このようなことはないでしょうね。

一覧性のメリットといえば、新聞を読むことも同じですね。一年生の授業でNIEに取り組む私としては、新聞スクラップの宿題を通して、生徒にそのことを気づいて欲しいのですが、嫌々やってくるものが多いのが現実です。それでも、まだやってくる生徒は良いです。おそらく知らず知らずのうちに、新聞の一覧性の効果がいずれ出てくるはずですから。というか、そうなることを信じていないと、毎回生徒の人数分の新聞スクラップにコメントするこちらが嫌になってしまいますから(笑)

ちなみに、毎日職場に持って行くカバンの中には、必ず数冊の本が入っているのですが、今は自治体史の校正原稿が幅を効かせていて、なかなか本を読む機会がありません。嫌々やっている(笑)ものですから、なかなか終わらなくて。息抜きと称して、持っていった本を数ページ読んでしまったりして現実逃避(笑)するものですから、なおさら遅くなってます。この週末に模擬試験があるので、その監督をしがてら、なんとかやり終えないと。ただ、台風が心配です。

2010年10月27日水曜日

東大生は"我慢大会の勝者"なだけ?

BLOGOSに、タイトルのトピックスがあったので、これを取り上げさせていただきます。

元ネタは、城繁幸氏のブログ「Joe's Labo」 の、「週刊プレイボーイ最新号」という記事です。週刊プレイボーイの最新号を見てはいないのですが、「週刊プレイボーイ最新号」の中に、ジョブウェブの佐藤孝治氏の分析する受験エリートの弱点が出ているそうです。

社会人とのコミュニケーションが苦手
暗記は得意だが、主体的に物事を考えない
自分のPRポイントがわからない
志望動機が語れない
何がしたいのかわからない

そして、その結論が、「東大生なんて全国暗記我慢大会の勝者でしかない」ということなのです。

これに対して、城氏は、

もちろん受験エリート全員がそうではないけど、入試突破時点で人間として歩みを止めてしまっている若者が実に多い。

とコメントしています。 このコメントには同感です。しかし、佐藤氏の受験エリートの弱点には、やや?です。

佐藤氏が指摘している受験エリートの弱点としているものは、受験エリートに限らず、現代の若者全体に当てはまることだと思うのです。
そして、そうなった原因は、「ゆとり教育」のせいだと思います。文科省が「ゆとり教育」を導入することで狙っていたものが、見事に成功したせいだということです。 文科省が「ゆとり教育」で狙っていたものについては、以前のブログでも書きましたが、本当にごく一部の人間だけが生き残っていくためのやり方なのだと言うことを改めて感じました。

このままではいけません。ことが大きくなる前に、なんとかしないとイケないです。そうでないと、日本が国家としての存続すら、危ぶまれる事態に陥りかねない状況になってしまう可能性もあるのではないかと思わざるを得ません。ただ、もし日本が本当に、国家としての存続が危ぶまれる事態に陥ることがあっても、現状の社会状況を考えると、それは自業自得なんだと思います。それで済ましてはいけませんが。

2010年10月26日火曜日

『日経ビジネスアソシエ』2010年11月2日・11月16日合併号

文房具好きにはおなじみの「決定版手帳術2011」が特集1ですが、今回は特集2の「「ジョブス流プレゼン」の極意」の方を取り上げます。

私も、手帳特集に惹かれて購入したのですが、手帳特集は真剣に読むというよりは、眺めて楽しむといった用途なので、ちょこちょこ見ていくので、ゆっくりなんです。おまけに、かなり長い期間にわたって眺めていきますので、特集を読み終わるころには、前の方に書いてあったことを忘れている(笑)ので、また再度眺め直す(笑)という方法で、次の『趣味の文房具』とかのエイ出版の雑誌などの文房具関連雑誌や本が出るの待つわけです(次は『ノート&ダイアリースタイルブック』5が11月5日に発売のようですね)。

それで、特集2のプレゼンの記事の方ですが、良く考えて見ると、教員が生徒に授業を行うのも、見方によってはプレゼンなわけです。というか、そういう感じでやると、おもしろいんじゃないかと思ったわけです。

STAGE1で、iPhoneの「セカイカメラ」を考えた井口尊仁氏の話が出ています。iPhoneユーザーではないので、「セカイカメラ」はよくわからないのですが、井口氏はプレゼンの鉄則として、

LOOK UP(上を見る) BELIEVE(信じる) STRUGGLE(戦う)

EXPOSE(さらす) IMAGINE(想像する) CHANGE(変える)

の6つを上げています。

「LOOK UP」:「セカイカメラ」のコンセプトで、「下を向いてパソコンをさわっているのではなく、外に出よう」という意味のようですが(つまり「書を捨てよ、町へ出よう」ってことですね)、プレゼンでも伝えたいことがあるかが大事で、伝えたいことを見つけたら、それを自分の外に向かって発信しようってことのようです。これはまさに、その日の授業で教員が生徒に伝えたいことを、生徒に向かって発信するってことに繋がるのではないかと思うのです。教員は生徒に伝えたいことをたくさん持っています。その意味では、「LOOK UP」はOKでしょう。

「BELIEVE」:自分がそれで本当に世界を変えられると信じているかどうか、ということのようです。自分が生徒に授業を通して、様々なことを伝えることで、未来を作っていくんだと信じているからこそ、すぐには結果がでず、自分たちの成果がわからないにもかかわらず、教員としてやっていけるのです。その強い信念がないと、授業も生徒には伝わりません。 

「STRUGGLE」:学校教育は日々、戦いだと思います。エネルギーの塊である若者(だから、時々無駄なエネルギーを発散するために、色々とやらかしてくれるわけですが(笑)でも、若いうちはそういう経験があったほうが良いと思います)と日々向きあっているのですから、生徒に勝つ必要はないですが、負けないようにしなければなりません。

「EXPOSE」:自分の胸の内をさらさないと、生徒も心を開いてはくれないということです。こちらが腕組みをして怖い顔で立っていれば、生徒だって萎縮してしまいますし、おべっかを使ってごまかそうとするでしょう。授業中だって、時間が終わるまでおとなしくしていれば良いと、ただひたすら時計とにらめっこでは、我々の伝えたいことは伝わりません。

「IMAGINE」:授業などでも、教員はどうしてもしゃべりすぎます。伝えたいことが多くてそうなるのですが、そんなに多くては当然覚えきれませんし、話を聞いているうちに、嫌になってしまうでしょう。教員がすべて説明するのではなく、生徒に想像力を働かせてもらい、考えてもらうために、できるだけシンプルにしたほうが良いでしょう。これは自分への反省でもあります(笑)

CHANGE:教員の指導を通して、生徒に変化を起こさせるのが大切です。勉強をしなかった生徒が、勉強をするようになる、遅刻ばかりの生徒が遅刻しないようになる、提出物を出さなかった生徒がきちんと期限どおりに出すようになる、このように変化してくれることが教員にとっては、自分がやっていることへの手応えになるわけですし、一つの評価にもなるわけです。

井口氏が提示している、プレゼンの6つの鉄則はこのようにすべてが学校教育で言い換えることができます。
日常のちょっとした思いつきや雑談の積み重ねが大事で、日々決戦。常にアンテナを張り、ヒントを求めて、人と対談し、仮説をぶつける。これらはプレゼンで大切なことですが、すべてが学校教育のなかで活用できるわけです。
ビジネスマンにとってプレゼンが大切なのは当たり前ですが、教員にも必要だという主張は、このような点から言っているのです。ジョブズの劇場型と称されるプレゼンを見ていると、ますますそう感じるのです。

この記事のEPILOGUEでは、「次は、あなたが「Imagine&Change」を起こす番だ!」と書かれています。教員もまさにこれだと思います。ジョブズ流プレゼン、学んでみる価値はあると思います。ジョブズのいくつかのプレゼンやスピーチの動画が見れるサイトも案内されていますので、動画も見てみると良いと思います。

2010年10月25日月曜日

『週刊金曜日』2010年10月22日 820号(その2)

(その1)に続き、(その2)として、横浜市で使用が始まった自由社版中学校歴史教科書の記事についてです。

そもそも何故、横浜市の教育委員は自由社版中学校歴史教科書を採択したのでしょうか?当然、これによって何らかのメリットが生じるのでしょうが、一体なんなのでしょうか(お金かなぁ)?そもそも、教育委員の見識ってどの程度のものなのでしょうか?正直言ってあやしいような気がしますが。

横浜市教職員組合による「中学校歴史資料集」に関しては、むしろこの忙しいなので、よく頑張っているなぁと思います。このような先生方の情熱があれば、自由社版の教科書でも、何の問題もないのではないかと思うのですが(楽天的すぎますか?)。
それよりも、これに対する義家弘介参議院議員(この方、いつの間にか議員になっていたんですね。)の批判は、その批判自身が「歪曲したイデオロギー」であり、「背信行為」なのではないでしょうか?義家氏ってこういう人だったんですね。北星学園余市高等学校をやめて、横浜市教育委員会教育委員に就任した頃からの関係なんでしょうけどね。まぁ、この人はこの人なりにやっているんでしょうけど、正直言って、歴史問題には素人ですね。発言するのなら、しっかり勉強してからにしたほうが本人のためだと思いますが。

そもそも自由社版の歴史教科書の問題は、記事にもある横山百合子帝京大学教授の指摘にある、

さまざまな「事実」の存在に目をつむり「物語」を主張するために、繰り返し「事実」を無視した誤りが生み出されている

という点なのです。教科書なのに、「事実を無視した誤り」があるなんて、そもそも教科書としては相応しくないわけで、イデオロギー以前の問題です。
文科省も「誤り」のある教科書を、よく検定をパスさせたものです。教科書検定制は何のためにあるのでしょうか?かつての家永教科書裁判の、「検定制度は、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」としている判決を逆手にとって、自由社版に「お墨付き」を与えているだけのように感じます。

「自由社版は、天皇中心の歴史観が強すぎ、日本に都合の良い記述が多い。この教科書だけでは、生徒に多面的な見方を身に付けさせることはできないので、他社の教科書も利用して独自プリントを作成し」ているという、取材を受けた横浜市の中学校教諭の言葉が記事には載っているが、これに関してはやや疑問があります。というのは、仮に他の教科書で教えたら、多面的な見方を身に付けさせることができるのでしょうか?正直言って中学生くらいでは、どんな教科書を使っても、教員の教える中身をそのまま鵜呑みにすると思います。もし仮に多面的な見方を身につけることができる生徒がいたとしても、それはほんのごくわずかでしょう。

歴史は、そもそもそれを語る人物のイデオロギーが含まれているものです。ただ、そのことを理解した上で、歴史を見る目を養わせる必要があるかと思います。
多面的な見方を身に付けさせたいのならば、自由社版とそれ以外の会社の教科書を数冊用意して、読む比べをしながら教えていくほうが良いと思います。あるいは、他の教科書と比べて、自由社版の教科書の記述の違いを生徒に読み取らせるほうが、問題点を指摘しやすいですし、よほど教育的効果が高いのではないかと思うのですが。
NIEでは、よく各紙の読み比べをして、メディアリテラシーの力を養ったりしているのですが、これを教科書でやれば良いのです。教科書といえども書籍なわけですし、自由社版の教科書を逆手にとって、いわゆる反面教師的教科書として扱えばよいのではないでしょうか?

それに、文科省の「教科書観を変える」という発想、つまり教科書に載っていることを「必ずしもすべて取り上げなくてもよい」のならば、間違っていたり、偏っていたりする部分はその教科書を使って取り上げるのは、やめてしまえば良いのではないでしょうか? 
「教科書を教える」のではなく、「教科書で教え」てしまえば、自由社版の教科書は、むしろ格好の教材だと思います。

2010年10月24日日曜日

『週刊金曜日』2010年10月22日 820号(その1)

メインは、11月28日に控えた沖縄県知事選挙にからんで普天間問題再燃、というものですが、私は「教科書があぶない2010」の小学校の新しい教科書と横浜市での自由社版中学校歴史教科書の記事に大変興味を持ちましたので、これをとりあげさせていただきます。

まずは、小学校の新教科書についての記事ですが、2008年3月の学習指導要領改定に伴い、検定制度も改正されたのは知っていましたが、具体的なことについては、この記事で初めて知りました。
授業数と学ぶ内容が増えることで、教科書もページ数が増加するのは当然ですが、「学力低下」を受けて、「理数教育の充実」のために算数と理科の教科書のページ数が特に増加し、さらに今までのB版からAB版になるとは、かなりの増加になるでしょうね。
現状でも小学校の先生方は忙しい日々を送っていらっしゃるのに、また新しい問題が浮上してきたわけで、小学校の先生方の胸中、お察しいたします。先生方が大変なら、そのしわ寄せは当然、子ども達に来るわけです(ウチの子、この先大丈夫か、かなり心配です)。

文科省の「教科書観を変える」、「必ずしもすべて取り上げなくて良い」との主張を見ても、「ゆとり教育」が完成するのだというのも、うなずけます。「ゆとり教育」の本当の狙いが格差教育であるということが、はっきりしたわけです。そして、現状はその文科省の狙いが、まずまずうまく進んできているわけで、これで完成させようとしているのです。
今まで現場の教員は「ゆとり教育」の言葉と、その実態とのギャップに翻弄されてきたわけですが、ある意味、その真の姿がはっきりみえたことによって、迷いはなくなるでしょう。文科省の狙いどおりに格差教育をするのかしないのか。義務教育とは何か、その原点に立ち返って考える必要があるでしょうね。

ただ、小学校新教科書、あまりにもお粗末で笑ってしまいました。国語では神話が登場するということで、一・二年生用には、「因幡の白ウサギ」や「ヤマタノオロチ」が登場するようですが、「因幡の白ウサギ」はいいとして、「ヤマタノオロチ」で一・二年生が何を学ぶのでしょうか?そのうち「天岩戸」とかが出てきて、「アメノウズメ」のように、胸をさらけ出し、スボンを陰部までおし下げて踊ることが、良いこととされるようになるのでしょうか(笑)
算数や理科でも伝統文化や道徳などを入れるのは、やりすぎでしょう。とくに算数の巻末問題で正解にたどり着き、「すなおのかぎ」、「せいぎのかぎ」、「友情のかぎ」、「希望のかぎ」を手に入れることができると、最終的には「未来というすばらしい宝もの」が手に入るって、ドラクエじゃないんだから(笑)でも、子ども受けはいいかもしれません。

その他もいろいろおもしろいのですが、社会科の教員としては、やはり社会が気になります。地域探検で神社を追加というのがありますが、これについては、今までなかったということを初めて知りました。神社とかは社会科ネタの宝庫と思っていたので意外でしたが、これは教員のやり方次第で、良くも悪くもなりますね。きちんと歴史を勉強している先生が担当すれば良い教材になると思いますが、小学校の先生方はお忙しので、ちょっと無理かもしれません。だとすると、あまり良くない教材なのかもしれません。
調べ学習の訪問先へのお礼、「終わったら、お礼をいう」って、当たり前なんですけど(笑)ある意味、こう言うのを学校で、それも教科書で教えるっていうのが、かなりひどいですけどね。こんなこと、家庭で教えるのが当たり前って思っているのは、古いんでしょうか?それとも、それだけ家庭の教育力がなくなっているんでしょうか?別の意味で問題ですね、これは。
ヤマトタケルの神話が全社で出てくるってのもすごいですね。もう戦前並ですね。ヤマト政権の呼称や天皇の役割などの点を見ても、戦前の「皇国史観」を彷彿とさせるものがあります。やっぱり、「少国民」をつくるためには、小学校での教育が大事ですからね。そのうち、「道徳」は「修身」になるんでしょうか?

小学校でこのような歴史を学べば、自由社版中学校歴史教科書は、違和感がないでしょう。もしかして、そこまで考えて新教科書はつくられているのでしょうか?
ということで、横浜市の自由社版の中学校歴史教科書の記事については、(その2)で。

2010年10月23日土曜日

「できない人って、トコトンできない。」

土井英司氏のメルマガ「ビジネスブックマラソン」Vol.2284の「編集後記」で、タイトルの話が話題になっていましたので、それについて取り上げます。(なお、本文のバックナンバーはブログから読めますので、興味のある方はこちらへどうぞ。)

内容は、あるコーヒー店に行った土井氏とスタッフの方が、今話題の「神楽坂かりんと」(って何?と思いましたのでネットで調べたら、タリーズコーヒーで販売している黒糖かりんとうのようです。静岡にもタリーズコーヒーはありますが、行ったことがないので知りませんでした。ちなみに、私が黒糖かりんとうで好きなのは、静岡県の中部地方にあたる、吉田町というところに会社がある松浦食品さんの「芋まつば黒糖」です。静岡県中部地方ではさつまいも加工品製造が盛んで、有名なのは乾燥いもですが 、乾燥いもは戦前から造られています。松浦食品さんではさつまいものかりんとうを「芋まつば」の名前で販売しています。その芋かりんとうに黒糖をコーテイングしてあるのが「芋まつば黒糖」で、黒糖以外にも、プレーンのものや、季節限定ではちみつ入り、チョコレートなどもあります。あぁ、何か話がそれてしまいましたが、「芋まつば」、おすすめです。サイトはこちら。)がレジにあったのに、注文を受けた人はそれに絡む気配がなかった上、荷物を持ってスタッフルームへ入るのに、お客さんの目の前で足でドアを開けた、というのを見て、タイトルの話になったということなのです。
つまり、話題になっている商品だから、「これ、今売れてますよ」とか、「今話題の商品はこれですよ。お一ついかがですか?」くらいのヒトコトがあれば売上が上がるだろうし、お客さんの目の前でドアを足で開けるなんて、 ということなのです。

この「できない人って、トコトンできない。」って、正直言って当たりだと思います。学校でも、勉強ができない生徒は、提出物は期限どおりに出せない、授業中も居眠りが多い、当ててもすぐに「わかりません」と言って逃げてしまい、考える努力をしない、プリントなどをよくなくすなど、本当にトコトン、ダメダメな状態なのです。これって、何が原因なのでしょうか?
原因のひとつは、物事の考え方だと思います。こういう人は、基本的にマイナス思考なのではないかと思うのです。小さなころからあまり褒められた経験もなく、成功体験が少ないのではないかと思うのです。そもそも、マイナス思考になってしまったのは、親があまり褒めず、それゆえ自分に自信を持てなくなってしまったのが原因なのだと思います。
子どもは、何か新しいことができるようになると、必ず親に見せたがります。それは褒めてもらいたい、よくできたねぇとか、よく頑張ったねぇとか言ってもらいたい、つまり認めてもらいたいからこそ、見せるのです。その時に、きちんとそれを認めてあげれば、その子は自信がつくのです。しかし、褒めてもらいたいのに、つまり親に認めてもらいたいのに、その欲求が満たされなければ、その子は自分自身に自信が持てなくなるのではないかと思うのです。

今の世の中は景気が良くない中で、生活も苦しく、活気を失ってしまっていて、日本全体がマイナス思考になってしまっているために、このような人が多くなってしまっているのではないかと思うことがあります。昔は、勉強ができなくても、学校生活の中で、何か別の良いものを発揮する場面がありました。
ですから、子ども同士の中で、あいつは勉強はダメだけど、誰にでもフレンドリーで人懐っこいから好きだとか、やっぱりあいつみたいに、毎回宿題をきちんと先生に言われたときに出すようにすれば、俺ももう少し勉強ができるようになるかも、とか言うのがあったように思いますが、今はそのようなことが少なくなっているように思います。だから、「できない人は、トコトンできない」という状況になってしまっているのではないと思います。

また最近は、その反対の「何をやらせてもできる」という子も、少なくなっていませんか?根拠があるわけではないですが、教育現場にいて、なんとなくそう思うのです。
このような状況を何とかして改善していかなければ、明日の日本はどうなるのかと不安になります。本当ならば、教育現場にいる我々が何とかすべきなんですけど、ただ家庭の教育力が弱まっているといわれる中で、こんなこと教員である私が言うと怒られちゃいそうですけど、基本は家庭の力だと思っているのですが・・・。

2010年10月22日金曜日

2010年10月22日配信『ニュースの視点』メルマガ あとがきを読んで

大前研一氏の「ニュースの視点」のメルマガ通常号は毎週金曜日に配信されます。今週は、日本は中国に「朝貢」か?~「矮小」日本に国民は耐えられるのか?」がメインの記事ですが、私は「あとがき」がちょっと気になりましたので、こちらを取り上げさせていただきます。
(なお、「ニュースの視点」のメイン記事は、メルマガだけでなく、ブログで読むことができますので、興味のある方はこちらへどうぞ。 毎回大変ためになる記事が多いですので、国際的な動向を知りたい方にはおすすめです。)

で、私が気になったという「あとがき」というのは、電話の話です。
「あとがき」を書いている、「編集部 へいち」さんは、通信手段としての重要性は認識しつつも、電話が嫌いなんだそうで、その理由というのが、

相手が何をしていようと、一方的な都合だけで全てを破壊してずかずかと侵入してくる、ものすごく暴力的な機械

だからなのだと言うのですが、実は私も同じ意見なのです。

こちらが何をしていようと、電話が鳴れば出ざるを得ません。何か考え事をしていたり、モノを書いていたりするときほど、電話で中断されるのはとても嫌な感じです。せっかくのいいアイデア(そういっても、たいしたアイデアではないですが)が出そう、あるいは出ている途中に、電話で中断されてしまいますと、続きが浮かんでこない、そういう経験、ありませんか。
とくに最近は携帯電話ですから、私の携帯が鳴るということは、少なくとも私に用事があってかけてくる人なので、出ないわけにはいきません。家の電話なら、私あてではない可能性が高いので、家に誰もいないとき以外は、基本的に電話はとりません。

ですから、自分が他の人に電話をかけるときには、とても緊張します(昔、好きな女の子の家に電話をすると、たいがい父親が出たりして、ものスゴく気まずい思いをしたせいかもしれませんが(笑)その意味では、今の若い子は携帯で直接本人と話ができるので、うらやましいですね)。
このタイミングでかけたら、迷惑ではないだろうかとか考えると、電話するのをためらってしまいます。仕事での電話は仕方ないのですが、それでもあまりいい気持ちではありません。とくに高校の教員が、生徒の家に電話をかけるのは、必ずしも良いことばかりではない電話が多いので、なおさらためらいがちになります(なぜか、良くない電話をしなければならないクラスに、よくあたるんですけど・・・・・)。

そういう理由で、私は断然メールが好きです。とりあえず送っておけば、相手の都合が良い時に呼んでもらえるから。
その意味では同じメールでも、携帯メールはダメですね。メールが着いたのがわかるので、どうしてもその場で読んでしまい、電話に近い状況になってしまいますから。とくに最近の若者の「3分ルール」なる、変な習慣は良くないですね。メールを送ったらすぐに返事をしなければならないなんて、メール本来の長所が無意味になってしまいますから。
高校で生徒が登校できなくなるなどのトラブルの原因の一つが、このメールでのやりとりがきっかけというのはよくある話です。
こうなると、便利なのかなんなのかわからないですね。むしろ無い方が良かったりします。どこの学校でも、携帯の使い方やマナーなどの教室を開催するでしょうけど、生徒の携帯がきっかけで起こるトラブルは、毎年多いと思います。

今の世の中、本当に昔より便利で進歩した世の中になっているんでしょうか?何か違うような気がするのは、私だけでしょうか?夜中に、一生懸命書いたラブレターのほうが良かったような気がします(たいがい夜中に書くと、情熱的な文章になるので、翌朝見ると、恥ずかしくなるんですよね。それで結局出せなくて、そのまま終わる(笑)まぁ、結局「オチ」はそこですけど(笑))

2010年10月21日木曜日

テラの多事寸評「それでも進学校・難関大学に行こう」を読んで

BLOGOS」のトップページを眺めていたら、タイトルの記事が出ていて、読んでみたらおもしろかったので、取り上げさせていただきます。

テラさんが進学校・難関大学への進学を勧める理由は、
進学校・難関大学であることと、勉強することや努力することを「恥ずかしいこと」とみなす風潮は、反比例の関係にあるからです。進学校・難関大学であればあるほど「勉強・努力をするのがよい(当たり前)」的環境の傾向が強くなり、底辺校であればあるほど「勉強・努力ダサイ」的環境の傾向が強くなります。
 と、いうことなのですが、基本的には私も同意見です。

私の勤務校は、底辺校とまでは行かないですが、同じ地域の高校の順位付けの中では、下から数えたほうが早いような学校です。数名の国公立大学への進学者を出しますが、二桁にはとどきませんし、地元の大学への進学がかなり多いです。学年で一クラス、年によっては二クラスの場合もありますが、進学クラスを作って頑張らせようとしています。

しかし、全体のムードは、それほど勉強を一生懸命に頑張るという感じではないので、勉強することが恥ずかしいとは行かないまでも、勉強しなくても別に気にならない、テストの点数が悪くてもそれほど気にしない、赤点がついてもそれほど恥ずかしいと思わない、そんなムードがあるように感じます。
ただ、性格がおとなしい、いわゆる人の良い生徒が多いので、勉強を頑張る人の足を引っ張るというわけでもなく、そういう人はそういう人で自分とはあまり関わりがないというふうにみなしているようなのです。ですから、勉強を頑張る人のことは素直に頑張っていることを認めて、賞賛する向きもあるのですが、だからといって、他の生徒が一緒になって頑張るというムードが、いまいち盛り上がらないのです。

そんな感じなので、受験生でも最後まで熱のこもった受験勉強をするというのは、進学クラスの生徒をはじめとしたごく一部で、かなりの生徒は、「勉強を頑張っていい学校に行こう」とは思わず、「現状で行ける学校に行く」のです。ですから、以前のブログにも書きましたが、推薦・AO入試の数が多く、誰がが決まると、不安になり、焦りだして、結局安全パイととろうとするのです。

このような状況は、教員からすると、もどかしさを感じます。中にはもっと頑張れば、そこそこのところへ行けるだけの力がある生徒もいるのですが、最後まで粘りきれないのです。私も「最後まで後押ししてやるから、一緒に頑張ろう」と引っ張っていくのですが、最後まで付いてくるのはごくわずか、ほとんどは自らレースを棄権してしまいます。人が良い生徒が多いだけに、かわいそうに思うのですが、どうしてもメンタル面が弱いのです。

テラさんの仰っていることは、一般的にはそのように考えることができますが、実際にはこのように当てはまらない人たちがいます。どちらかと言えば、このような中間層がむしろ多いように感じるのですが。 
良い学校・良い大学へ進むことの価値を認めるけれども、自分はそこまでは頑張れないので仕方がない、努力することの意義は認めるけれども、自分にはそこまで努力ができるだけの能力がないので仕方がない、このように感じる層が多いがゆえに、推薦やAOでの合格者が、入学者の半数近い数字になっているのではないかと思う部分があります。

結局、このような状況ですと、日本の教育水準は全体的に低くなってしまうのではないでしょうか。昔のような、過激な受験競争が良いとは思いませんが、もう少しなんとかならないかなぁと思います。

2010年10月20日水曜日

「志望理由書」って、難しい?

多くの大学では、推薦・AO入試の真っ只中の時期です。AO入試のほうは、峠を超えたという段階くらいでしょうか。これから推薦入試が多くなって行くわけです。(就職の生徒も2学期に試験ですが、就職の生徒は9月中にはその指導を終わらせないといけませんので。今は、最初の就職試験も一通り終わり、内定をもらえた生徒が出てきました。このご時世でありがたいことです。)

で、推薦・AO入試、どちらでも必要になってくるのは、志望理由書です。AO入試の場合には、エントリーシートに、志望理由を書く欄がある大学もあるので、改めて出す必要がないところもあって、すでに指導が終わっている生徒もいますが。

毎年、二学期に入ると、3年生が志望理由書や小論文などの指導を受けにやってくるのですが、昨日も一人指導をお願いにやってきたので、今日見てあげました。昨日、とりあえず、下書き程度のものを何か書いてくるように指示しておいたのですが、今日見ると、何も書いていません。「なんだぁ~、何も書いて来なかったの?」と聞くと、

「だって、志望理由書って、何書いていいのか、わからないんだもん!」との返事。

これは、今年に限ったことではないんです。例年、ほとんどの生徒がこう答えるんです。
しかし、だいたい志望理由書には、「その学校(学部・学科)を選んだ理由」、「自己PR」、「入学後の目標」の3つくらいの質問について書くようになっているので、書くことは明確なはずなのです。にもかかわらず、

「志望理由書って、難しい!!」という生徒が多いのです。

毎年、何を難しいと言っているのか、いまいち理解できないのですが、仕方が無いので、対話しながら、少しずつ書き進めさせています。私が質問したことに答えさせていくと、悩みながらも答えてくれるので、その答えを紙に書かせていきます。
簡単な対話法でその生徒が考えていることを引き出しながら、それを紙にまとめさせていくと、数回やるとなんとかカタチになるのです。
終わった後に、書いた紙を見た生徒は、「あ、書けてる!」、「すごーい!!」、「これで、いいんだ」。

書き終わった後に話を聞くと、どうも難しく考えているようで、なかなか筆が進まないようです。 思うに、一つは文章を書き慣れていないこと、一つは「志望理由」の言葉からの連想で、難しいものを想像しているといったあたりなのではないでしょうか。何せ、漢字が苦手という生徒が多いですから。

どうも、いろんな学校で同じような感じのようです。
 
やはり、文章は「慣れ」が必要でしょう。小学校、中学校と文章を書く機会が多ければ、もっと違うのではないかと思います。また、書いたものを誰かに見てもらうということも、文章を書く訓練には大切なことだと思います。

昨年の3年生で、新聞スクラップをさせてそれにコメントを書かせる宿題をさせたところ、数回やったころから、かなりしっかりとしたことを書く生徒が出てきたので話を聞いてみると、中学校でも3年生の時 に一年間同じようなことをやった経験があるということでした。高校入学後はやっていなかったということですが、私が担当してやるようになったこと で、中学の時のことを思い出したら、どんどん書けるようになってきたということでした。
やはり、一度ある程度文章を書く練習をしたことがあると、多少ブランクがあっても、高校生くらいなら再びやり始めると、それを思い出して書けるようになるようです。
今年入学してきた1年生の自分のクラスの生徒も、例年と同じように文章に慣れていないだろうと思い、新聞スクラップにコメントを書かせる宿題を、4月以来やらせています。半年ほどたった今、個人差はありますが、なかにはかなり文章らしきものが書けるようになってきた生徒がいます。これを3年生まで続けていけば、少しは違うのではないかと思っているのですが、はたしてどうなるでしょうか。

2010年10月19日火曜日

『週刊エコノミスト』2010年10月19日号「危険な中国」を読んで

昨日のブログで触れた、佐藤優氏の記事について、気になって今週号を確認してきました(立ち読みですけど(笑))。やはり、佐藤氏の提言している勉強法の話の続きが載っていましたので、気になる方は、『週刊東洋経済』2010年10月23日号を御覧ください。昨日18日に発売になっていますので。

 このところ円高のニュースが飛び交っているので、授業で話題にするネタを仕込むために、『週刊エコノミスト』をよく読むようになりました。他の週刊誌(『週刊東洋経済はもちろん)も、経済ネタは載りますが、『週刊エコノミスト』はここ1ヶ月は毎週、為替や金融関係をメインで載せています(まあ、タイトルがエコノミストですから、当たり前といえば当たり前ですが)。おかげで、為替関係のネタには強くなった(ような気がするだけ?)と思っています。

ただ、今日取り上げるのは、メインの「さらに財政出動」ではなく、「危険な中国」と題された、尖閣諸島問題の話です。
今朝方のテレビで、「習近平(シー・チンピン)国家副主席(57)を軍の最高指導機関、中央軍事委員会の副主席に選出することを決めた。軍の人事を握る要職に就いたことで胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席(67)の後継者となることが内定した。」というニュースが流れていましたが、保守派や軍部から支持されている人物のようなので、確かに、今後の中国はこの記事のタイトル通りになっていくのかもしれません(今はすでにその始まりかも、ですが)。

ただ、それと同時に気になるのは、中国人船長釈放の背景には前原外相に対してアメリカからの圧力があったということです。それも一応、アメリカとの「尖閣諸島には安保条約第5条が適用される」という交換条件のもとで、釈放することにしたにもかかわらず、アメリカの会見にその言葉はなかったという点は、安保についてやはり考えなおさなければならないのではないか、アメリカとの関係を考えなければならないのではないか、と思わざるを得ません。普天間問題のときにも同様に、安保を再検討すべきであるとの議論がありましたが、その後の首相交代や円高問題でウヤムヤになっていました。ただ、今回の問題を見ると、政府関係者は安保について再検討しようという意志はないように思われます。しかし、今回はある意味アメリカに裏切られ、中国にも弱さを見せてしまったわけで、日本の政治の未熟さを、今更ながらに感じてしまった事件だったワケです。
「国内法を適用する」という前原氏のとった戦術は、一歩間違えれば戦争になっていたかもしれないほどの問題です。正直、民主党は中国を分かっていないですし、中国とのパイプも持っていないように思います。
習近平国家副主席が胡錦濤国家主席の後継にほぼ決まったということは、鄧小平路線の終わりを意味するわけです。ですから、なおさら中国を知らないと、今後もっと大きな問題が起こり得る可能性は十分にあると思います。

同じ『週刊エコノミスト』2010年10月19日号の書評欄に、国際日本文化研究センター名誉教授の今谷明先生が(学生時代、授業を受けましたので、先生と呼ばせてもらいます。あの時は、足利義満の話をしていました)、『倭国伝-中国正史に描かれた日本』(藤堂明保・竹田晃・影山輝國全訳注、講談社学術文庫)の書評を書かれています。「中国から日本はどう見られていたか」と題した書評の中に、

「(前略)日中両国間には古くから互いに偏見があり、為政者や知識人に限っても、それを抜け出し、自由に自己認識、相互認識を行うことがいかに困難であるか。今もそれを思い知らされる、という点で本書の復刻のメリットは大きいというべきだ。

と、書かれています。尖閣諸島問題を意識して、この書評を書かれたのかはわかりませんが、まさに中国との問題は、この指摘の通りだと思います。『倭国伝』は古代から近世までの文献を収めたものなのですが、中国問題を考える上では、読んでおくべき一冊だと思います。
ただ、菅首相や前原外相は読まないだろうなぁ。政治家こそ、こう言うのを読むべきだと思うのですが。政治家に限らず、最近の日本人は、とにかく歴史学ばない、歴史学ばないですから。歴史を学ぶことはとても大切なのに。
みなさん、もっと歴史を学びましょう!!

2010年10月18日月曜日

『週刊東洋経済』2010年10月16日第6289号の「知の技法 出世の作法」第168回を読んで

前回に引き続き、『週刊東洋経済』2010年10月16日第6289号からです。

佐藤優氏の連載ですが、この方は本当に凄いですね。

今回は「法学や経済学の知識を公務員試験で確認する」というテーマなのですが、まず、受験勉強に対してそれなりの効用を認めているとして、次のように述べています。

(前略)大学入試を経ずに一流私立大学に内部から進学した学生と、熾烈な競争試験をくぐり抜けて、同じ大学に合格した学生を比較すると、英語、世界史、日本史、古文などにおいて、受験を経た学生のほうが、知識の量が圧倒的に多いことからも明らかだ。
問題は、この知識が理解を欠く不完全な記憶に基づいていることだ。(中略)それに加え、頭の良い学生ほど「受験勉強は意味がない」と思っている。(中略)日本の大学生の多くが「大学で勉強したことは実社会で役に立たない」と思い込んでいる。これは大きな間違いだ。アカデミズムの成果を実務に生かすためには、独自の切り口が必要となる。

この後、ベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論を踏まえて、尖閣諸島でおきた中国漁船の問題について考察しているのですが、そのあたりは今回は少し置いといて(佐藤氏の主張のメインは、このあとのこれらを踏まえた勉強法の部分なのですが・・・。)、私が注目したのは、「大学で学んだ知識は実務にも十分役立つ」という主張です。

基本的に、この主張に全く同感です。私も、世間一般ではいちおう一流とされている私学の大学に行っていたのですが、私が学生だった20年くらい前でも、付属高校からの内部進学者とそれ以外の学生とは、明らかに学力差があると言う話を先生から聞いたことがあります。つまり付属高校からの学生のほうが、知識量が少なく、何かの時にも頑張りが効かないということだったように記憶しています。

付属からの内部進学のシステムのことはよく知りませんが、今日の推薦・AO入試のような感じなのでしょうか?もし、そのような感じであるのならば、他の受験生がまだ勉強に必死になっている時期に、もう勉強しなくても良かったのだとすれば、学力差が出るのは当然でしょう。今日の推薦・AO入試の問題と同じです。
もう一つは、我々受験組の学生は、地方出身者が多かったため、、都会の人間に負けてたまるかという気持ちと、やはり内部進学者に比べれば、俺達はギリギリまで頑張って来たんだという自負心があったんだと思います。
佐藤氏の言うように、「受験勉強は意味がない」と思っていた部分もありますが、それを全く否定していたわけではなかったように思います(まあ、私がそれほど頭の良い学生ではなかったからなのかもしれませんが)。事実、高校での授業を理解できていたから、大学での話がわかったという経験がありますので、知識は身を助けるということを知らず知らずに経験していた部分もあります。少なくとも、私も周辺の人間は、内部進学組と受験組がいましたが、受験組の人間は似たような経験をしていました(何かの時に、そういう話を(「この話、高校の時にやったあれに関係しているんじゃない?」)したことがあります。その時に、受験組は納得してくれたのですが、内部進学組は「そんなのやってない、知らない」という話になったことがありました)。
ですから、「大学で勉強したことは実社会で役に立たない」とは思っていませんでした。当然、そのままの知識が役立つとは思っていませんでしたが、学問の基礎や物事の考え方、問題解決の方法を学んできたわけですから、社会に出てからも必要な知識は勉強する必要はあるが、その知識をうまく使って実社会で役に立てる術は、大学で学んだ知識だというふうに思っていましたし、今でもそうだと思っています。

ですから、佐藤氏の「大学で学んだ知識は実務にも十分役立つ」という主張には、大いに同感するワケです。「大学で勉強したことは実社会では役に立たない」と思っているから、バイトに明け暮れたりするだと思います。そう思って行くのなら、高いお金を払ってまで大学に良く必要があるのか、大学出でも、職がなく、フリーターや派遣になるのなら、何も大学に行く必要はないでしょうと思ってしまいます。4年間、かなりお金をかけてまで行く価値があるのが大学なんだから、ということでないと意味がないでしょう。
「大学の知識は役にたたない」と思っている人は、大学でしっかり勉強して来なかったのではないでしょうか。あるいは、そのあとの知識を生かす努力を怠っているのではないかと思います。
大学で学んだ知識を実社会で役立つものにするのは、実社会に出てからも学び続けることだと思っています。当然大学での勉強の延長ではなくて、自分が飛び込んだ業界の勉強や社会、経済、政治など、実社会で直面する内容です。

「大学で学んだ知識は実務でも十分役た」ちます。ただし、学び続けることがその条件なのです。(そうすると、きっと佐藤氏の勉強法が役に立つことになるのだと思います。知りたい方は、本誌を読んでください。一番最後に「この勉強法のメリット、デメリットについて考えていきたい。」とコメントされているので、もしかすると、今日発売の今週号でその辺のことを書いているかもしれません。あぁ、本屋さんに行って確認しないと。)

2010年10月17日日曜日

『週刊東洋経済』2010年10月16日第6289号の特集「本当に強い大学2010」を読んで

週刊誌によっては、というかほとんどの週刊誌は週の始めに発売するものが多いので、週末に購入するんじゃ遅いんですが、私の場合、最近は本屋さんに行く目的が、『週刊金曜日』を買いに行くためなので、全国の情報通の方に比べれば、情報を仕入れるのが遅いのは、ご愛嬌です(まあ、速報性は他の方に譲るとして、一応自称文科系知識人のはしくれ(そうなりたいと思って勉強しています)としては話題として知っておかないと思いましていろいろ読みあさっています)。

『週刊東洋経済」では毎年「大学特集」を組んでいますが、「編集部から」によると11年目になるそうです。高校の教員としては知っておいて損はないので、他の雑誌などでも同様のタイトルのものは読んでおくように心がけています。

今回の特集は、さすがに経済誌なので、大学の経営環境に関する話題から始まっていますが、私としては48ページからの「ユニバーサル化で学力低下が深刻化 選抜機能を失った大学入試 高大接続テストは特効薬か」が、やはり気になります。

2010年度入試の大学進学率は過去最高の50.9%で前年度(50.2%)に引き続き50%を超えたそうで、この状況は、アメリカのマーティン・トロウが提唱した高等教育発展の最終段階である「ユニバーサル(普遍)化」なのだそうです。これは、少子化と大学の設置基準緩和による大学数の増加の結果なので、「高等教育発展の最終段階」といわれても、これを発展の結果とみなすのは、いささか?な感じなのですが、 とにかくいわゆる全入時代であるのは間違いないわけです。
そのような中で急速に拡大したのが、推薦・AO(アドミッション・オフィス)入試ですが、この傾向は現場の教員としては戸惑いを感じます。
特にAO入試はペーパー試験を必要とする一般入試とは違って、「学力不問」入試のところが多いですから、当然生徒はそちらを選択したがります。その上、AO入試は、早いところでは夏休み前からエントリーが開始され、夏休み中から試験があって、一番早い子は9月にはもう合格しているという状況ですから、生徒はそれ以降ほぼ勉強のやる気を失います。
他の生徒の立場からすれば、自分が必死に勉強している時にすでに「合格」している生徒がいれば、焦ってきますから、精神的に追い詰められる子も出てきます。そこで安心を求めて、希望を下げてでも推薦やAOに走るということが起こってくるのです。そうなると、クラス経営は大変です(まあ、これは私の勤務校の状況なので、他の学校は違うかもしれませんが、正直似たような状況なのではないでしょうか)。そのため、私はこの状況はあまり快く思っていません。
ただ、その反面、「推薦・AOだから大学に送れた」という生徒もいますので、特に3年生の担任の時には大変複雑な気持ちでした。「大学進学だけがすべてではない」のですが、明確な目標もなく、将来どうすれば良いのか決められない生徒に対しては、「大学へ行かないよりは行ったほうが良いだろう」という、これもまた複雑な心境で進めざるを得ないため、そのような生徒には、特にAOで受けさせる以外になかったりします(ただ、こういう生徒はエントリーシート一つとっても、きちんと書くことができないので、指導が大変ですが)。
ですから、大学関係者からの「学力不足の生徒が増えてきた」、「授業の内容が理解出来ない生徒が増えてきた」、「話が通じない」といった声には、正直「そりゃ、そうでしょうね」と納得してしまいます。

記事によると、AOは大学側でも「手間のかかる選抜方法で、その運用も難しい」そうで、筑波大学では09年度からAO入試を廃止したようです。ただ、筑波大学レベルのAO入試ならさすがに学力が極端に低い生徒というのは行かないでしょうし、現実そのようですが、見直しの風潮が広まっているというのは納得します。
ただ、記事にある山形大学工学部の「居住地訪問型AO入試」という事例は大変おもしろいと思います。私は現在1年生の担任ですが、もしこのまま3年生の担任まであがっていったら、誰か一人くらい、このAO入試を受けさせて山形大学工学部に入れてみたいなぁと思ったりします。

入学生の学力不足を解消するために、AO入学者に対して入学前教育を行ったり、初年次に導入教育に力をいれる大学が増えているようですが、入学前教育はもっとしっかりやって欲しいですね。9月くらいに決めてしまえば半年はほとんど勉強しないのですから、アホになるのも当然ですし、先程も書いたように、他の生徒に対する影響もありますから、とにかく勉強している状況が必要です。大学側も、入ってきてから苦労するよりは、半分高校教員に協力してもらう形で、AO入学者に対する入学前教育の指導を徹底しておいたほうが結果的にはプラスになるでしょう(中には難色を示す人間もいるかもしれませんが、私は積極的に協力しますよ。予備校講師をスカウトして指導させるより、高校教員と連携したほうがお互いのためだと思います。高校と大学をつなげるような、それ専用のカリキュラムを考えないといけませんが)。

もうひとつ、「高大接続テスト」のことですが、個人的はフランスのバカロレアやドイツのアビトゥアのようにするのが良いと思います。 大学入試センター試験に加えて高大接続テストを設けるとなると、今でこそやらなきゃならないことが多いのにさらに負担が増えるということで高校側が難色を示すのは無理ありません。センター試験と高大接続テストを一つにしたようなテストにすれば、高校側の負担増のイメージも薄まると思います。
とにかく、もっとよく検討しないといけません。それも大学の先生と高校の現場の教員が話をしていく形で検討していかないと、結局意味のないものになる可能性が高いと思います。上のほうだけで話を進めずに、現場の声をもっと拾っていって欲しいですね。

2010年10月16日土曜日

『from 911/USAレポート』第480回                   「首都の教育改革に猛進したミッシェル・ルーの無念とは?」を読んで

JMM [Japan Mail Media] No.605 Saturday Editionで、冷泉彰彦氏という米国ニュージャージー州在住の作家さんのレポートを読んで、日本の教育の問題点を指摘した部分について、現役の一高校教員が感じたことを述べてみます。

冷泉氏は、5つに整理していますので、一つ一つについてコメントしてみます。

(1)アメリカの教育問題は、貧困層対策と中間層の底上げに優先順位を絞ればいいが、日本の場合は貧困層向けの教育の崩壊度合いもひどければ、エリート教育がそもそも存在しない一方で、中間層のレベル低下も起きており、改革しなくてはならない範囲が広すぎる。

これについては納得というか、まさにそのとおりだと思います。高校は、地域ごとに高校の序列(順位)がありますが、そのトップが徹底したエリート教育をしているかといえば、そんなことはないわけです。特に地方の公立高校の教員は、「異動」で別の学校に行くので、教える側のレベルが極端に違うということはありえませんし、公教育では格差があることは問題になります。地方でその地域のトップ校が公立高校だとすれば、底辺校と比べて、エリート教育と呼べるほどの違いがある教育をしているとは思えません。
もし私がトップ校に勤務したとしても、少なくとも大学受験レベルはどんな高校から受験するにしても同じなので、教える分量(知識として伝える情報量)が違ってくることはあると思いますが、受験に熱心な学校になればなるほど、教科書から大きく逸脱した内容の授業は行わないでしょう。
貧困層の崩壊が極端かは私にはわかりませんが、中学校の卒業生が、高校へ進学する割合は相変わらず高いのですが、100%ではありません。進学しない数%の生徒が貧困層の可能性もありますが、具体的にはわかりませんので、コメントは差し控えます。
中間層のレベル低下については、まさにそのとおりです。おそらく、普通の公立高校は中間層なのでしょうが、昔に比べて(具体的に何年前とは言えませんが、7、8年前あたりから)明らかに生徒の学習レベルは低くなっていると感じます。

(2)日本の場合は、全体として子どもが嫌がる反復訓練について、自発性を動機づける教育技術が全く確立しておらず、家庭での動機づけ機能が失われると救いようがない。その一方で、高校までの段階では機械的な設問への正答探しという狭い技能教育しか行われておらず、抽象概念の操作や相互性のある議論の訓練がほとんど行われないなど、そもそも親や教師が次世代に「モノを教える文化」の根っこが崩れている。

これには、全く反論の余地はありません。現場の教員が日々取り組んでいるのは、まさにこの「自発性を動機づける教育技術」だと思います。いかにして「やる気」を持たせ、自学自習の習慣を身につけさせるか、いかにして「やる気」を持続させるかについて、私自身も常に悩みながら指導しているのです。「高校までの段階では機械的な設問への正当探しという狭い技術教育しか行われておらず」という部分もまさにそのとおりなのですが、弁解させてもらうと、(1)に対しての部分にも書きましたが、大学受験レベルはまさに「機械的な設問への正当探し」の能力が問われるわけで、受験に熱心な「進学校」であればあるほど、そのような教育が重視されるのが高校の現状なのです。
 
(3)短く微温的な文章の無意味な分析ばかりで大冊の読書や厳格なエッセイ執筆訓練がオプションになっている国語、翻訳法の痕跡の濃い誤ったメソッドの続く英語、15歳の晩春に「自分は私立文系」と決めた途端に「完全に降りる」ことを許す無責任な数学カリキュラム、理社科に関しては最先端や同時代性とは程遠い一方で、裁判員や納税者予備軍としての社会人教育も存在しないなど、全般的にカリキュラムが無効化している。

これについては、現場の教員としては、反論します。(2)のコメントに書いたように、学習への動機づけに日々努力している現場の教員たちは、大学受験レベルを意識しながら、様々な工夫を施した授業を展開しています。カリキュラムが全く無効化しているとは言えないと思います。社会科の教員ですから、社会科について言うと、裁判員制度についてや税を考えるものなどの授業は、全国で多くの優れた教育実践が行われていますし、常に勉強して新しい知識を増やす努力をしている多くの社会科の教員がいることを指摘しておきます。

(4)そもそも「ホンモノの受験教育」は塾に任せて小中高は形骸化し、「ホンモノの実学」は企業内教育が担うとして大学教育に社会が期待しないという二重のムダがあり、その企業内教育も国際水準には全く遅れているばかりか、コスト的にできなくなりつつあるという「国としての人材育成のフレーム」が完全に壊れている現状。

「小中高の形骸化」は、(3)のコメントのとおり、そんなことはありません。「ホンモノの実学」については、そういう一面もあるかもしれませんが、企業についてはわかりませんので、コメントを差し控えます。

(5)教員組合だけでなく、制服業者から紙の教科書業者までアメリカとは比較にならないほどの裾野の広い既得権益の存在。能力主義による改革を叫ぶ層が、実は「歴史認識で戦後国際社会に敵対するイデオロギー」のグループであることが多く世論の中核とは距離がある。その結果として、硬直化した組合へ改革を促す動きが大きな流れにならないという政治的貧困。

「既得権益」については、そういう一面は否定できませんが、裾野が広いゆえに、その既得権益がそれほど大きなものではなく、これによる弊害はそれほど大きくないと見ています。少なくとも、現場の教員レベルでその弊害を感じることはありません。「歴史認識で戦後国際社会に敵対するイデオロギー」のグループとは、何のことをさして言っているのか、いまいちわかりませんので、世論の中核から距離があるかはわかりません。むしろ、日本において「世論」がどれほどあてにできるのか、「世論」とはどこにあるのかがよくわかりませんので、これ以上のコメントはやめておきます。

このように、現状の教育についての捉え方は、私とは少し違いますが、ただし、最後に冷泉氏が、

そうではあっても、いや、そうだからこそ、私はミッシェル・ルー氏の今後に注目したいと思うのです。底辺層から中間層の教育の底上げというような領域で、まさかアメリカが日本を上回ってくるようなことになれば、日本がこれまで北米市場を中心に謳歌してきた外需依存の経済構造も行き詰まるでしょう。ですが、それはすぐ先のことではありません。ルー氏の行動を参考に、日本も改革に取り組む時間はまだあるのです。

という指摘には、全く同感です。

『from 911/USAレポート』第480回
「首都の教育改革に猛進したミッシェル・ルーの無念とは?」
冷泉彰彦   :作家(米国ニュージャージー州在住)

JMM [Japan Mail Media] No.605 Saturday Edition

【発行】  有限会社 村上龍事務所
【編集】  村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】   ( http://ryumurakami.jmm.co.jp/ )

2010年10月15日金曜日

『週刊金曜日』2010年10月15日 819号

受験生が会場にズラッと並んだ、周辺がやや歪んだ写真と、「高校に行けない!」の文字、その下に「同世代対談 田中美絵子vs.雨宮処凛」と書かれた表紙でしたので、「高校無償化」になったが、それだけではダメだよ的な内容なのかと思いましたが、全然違ってました。

神奈川県では、公立高校全日制の定員が少なく、私立にいくか、公立にこだわるなら定時制か通信制かということらしいのですが、その定時制や通信制も統合が進み、満足な学校ではなくなっているらしいのです。以前から、このような話は聞いたことがありましたが、かなりひどい事態になっているようです。
まだ静岡県では、少なくと私は、県内ではこの神奈川県のような話は聞いたことがありませんが、静岡県でも高校の統廃合が各地で進んでいて、すでに統合された学校からはいろいろな問題点の話を聞きますから、決して他人事ではありません。まだこれから統廃合の計画が進む学校もあるなかで、地域による学校のバランスが悪くなる可能性もあるわけです。ただ、今のところ静岡県では、神奈川県ほどの話になることはないでしょう、と思います(断言はできませんが)。

話が戻りますが、私が今週の『週刊金曜日』の表紙を見て、雨宮処凛の文字もあったことから、「高校無償化」とは言え、まだまだ厳しい環境にあるんだと言う話だと思ったのですが、それというのも、ご存知のように「授業料」が無償化になっただけで、修学旅行の積み立てとか学年費やPTA会費とかの、いわゆる諸会費の集金はあります。「授業料」がなくなったとはいえ、授業料以外で集金されるお金は結構あります。それらのお金は、現在では銀行からの引き落としが多いのですが、引き落としができない例が、私の勤務校でもまだ数件あるのです。すべての事例が経済的な問題だとは限りませんが、この手の話は他にもあると思います。このこと、どこか調べてくれるところないですかねぇ。

またここ最近増えてきた、小中学生の親向けの教育雑誌の話も出ていますが、これらの雑誌も、子を持つ親としては、思わず手にとってしまいそうなタイトルで、実際読んでみれば、なんてことはない内容なのですが、私も時折気になって、つい、立ち読みしちゃいます(笑)。

もう一つは、「親学」の話題。しばらく前から時々話題になりますが、なんと言っても(財)親学推進協会の理事長は、「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長だった、あの高橋史朗明星大学教授ですから、その中身は言わずと知れた内容なわけです。
ですが、先にも触れたように小中学校の親向けに教育雑誌が増えてきているように、何か拠り所が欲しい親御さんにとっては、なんとなくそれっぽい響きがあり、「親になるための学び」とうたわれている「親学」は、一部では受けているのかもしれません。
しかし、「週刊金曜日」の記事にあるように、「親学」は明らかに偏っています。よくよく内容を確認すれば、明らかにおかしいとわかるはずです。子どもが小学生になったことによる、親としてのプレッシャーのために、急に教育熱心になった世間一般に多いタイプの、ウチの妻ですら、その矛盾には気がつきましたから、冷静に見れば誰でもわかるはずです。
ただ、子どもが小学校から持ち帰るお知らせの中に、「親学」の文字を目にすることがありますから、行政とうまく結んで、少しずつ進んでいるようです。これは危険だと思います。ある程度まではやむを得ないですが、一定以上大きくならないように、監視し続けていく必要があると思います。

2010年10月14日木曜日

『戦国合戦の舞台裏 兵士立ちの出陣から退陣まで』

最近、テレビゲームの影響で歴史ブームのようですね。「戦国バサラ」(でしたっけ?)などに出てくる戦国武将がやたらとイケメンに描かれていて、歴女なる女性ファンが多い戦国時代ですが、一般的にも、「江戸」幕末と並んで(「江戸」としたのは、まあ一般的には江戸時代の幕末を「幕末」と呼ぶのが普通ですが、当然「鎌倉」幕末や「室町」幕末もありますからね。ただ、室町の幕末は戦国時代ですが。『龍馬伝』のおかけで、江戸の幕末も今人気ですね。)好きな人が多い時代です。そのメインは、個性豊かな戦国武将と勇ましい合戦でしょうが、よく考えるとテレビドラマなどでも、合戦の舞台裏と呼べるようなシーンは多くありません。映像的に華々しい立ち回りのほうが絵になるからというよりは、その舞台裏についての知識が一般的ではないからなのではないでしょうか。

我々一般の人間のもつ合戦のイメージは、どうしてもテレビドラマなどの影響が強いのですが、洋泉社歴史新書yの一冊である本書では、盛本昌広氏の手によって、我々にその舞台裏の真の姿を見せてくれます。
読んで思ったのことの一つめは、陣取や軍道の整備、兵糧の確保など、合戦は始まるまでが時間がかかるんだなあってことです。実際の合戦時間の何倍もの準備期間があって初めて戦が始まるわけです。いわゆる総力戦に近い状況で戦うため、、戦国大名は、日頃から領国経営を一生懸命にやらないと、そのための準備がままならないと言うわけです。いわゆる総力戦は、日露戦争が世界初のものと言われていますが、別の意味での総力戦(つまり、その大名の支配領域に住む住民のかなりの部分が、何らかの形で合戦に関わるというレベルでの総力戦と言う意味です)が、戦国時代には行われていたわけです。

本書のポイントのもう一つは、言葉です。本書の「はじめに」でも述べられていますが、選挙の時に使われる「選挙に出馬する」、「出陣式」や、「首相の退陣」などの言葉は戦国合戦は由来するものです。そのような言葉が戦国時代にどのような使われ方をしているのかなどを始め、中世社会の慣習までをも視野に入れた説明をしてくれています。そして、そのような言葉や慣習が今日まで生きているのであり、戦国時代から現在までの歴史のつながりということを改めて確認できました。

高校の日本史の授業では、戦国時代はそれほどじっくりやる時間はありません。生徒の中には、この時代になると喜ぶ子もいますが、受験を意識してやると、どうしても戦国は簡単に済ませて先に進んでしまいます。私が多少時間を取るとすると、ネタが多いという理由で、文化それも南蛮経由の言葉、カステラだとかコンペイトウだとかについて、少しやる程度です。ですが、本書を読んだら、少し細かいこと、特に今日にまで通じる言葉や慣習についてのことを、もう少し時間をかけてやっておくほうが良いのではないかと思いました。 やはり歴史のおもしろみは、その時代の資料を読み解くことなんだということを、生徒にも伝えたいと思いました(でも、きっとまた明日からは「教科書の太字」を教えていくんだろうなぁ。どこかで変えないといけないなぁ。来年からかな(笑))

『戦国合戦の舞台裏 兵士立ちの出陣から退陣まで』 盛本昌広著 洋泉社歴史新書y 2010年10月 860円+税


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2010年10月13日水曜日

『COURRIER JAPON』 Vol.072 NOVEMBER 2010

この夏のマイケル・サンデルの「白熱教室」で、知的好奇心が刺激され、この雑誌の10月号の特集が「1日でわかる“カリスマたちの新理論”知性を鍛える「白熱講義」」と題されていましたので、初めて購入してみましたら、なかなかおもしろいので、引き続き11月号も購入してみました。
この雑誌、フランスの国際ニュース週刊誌『クーリエ・アンテルナショナル』と提携しているとかで、国内のニュース雑誌とは視点が異なっているように感じます。

11月号の特集は「マスコミから自立する知的生活法「情報格差社会」を勝ち残れ」。

最初にきているのが、「TED」。これ、実際にネットで見てみましたけど、とってもおもしろいです。日本語の字幕がでるので、英語が苦手な私でも大丈夫でした(何でも、いろんな国の言葉の字幕が出るそうで、全部ボランティアなんだそうです。これは素晴らしいですね)。一つの講義が18分前後で時間的にもちょうどいいです。いろんな講義が聴けて、とても勉強になります。ものすごくおススメです。検索がよくわからないので、片っ端から見てやろうと思っています。

もうひとつは、マイケル・サンデルの講義で話題になった、「iTunes U」や「YouTube」での、世界の大学の著名な教授の講義についての記事です。ただ、こちらで世界の大学の講義を見ようと思っても、字幕とかありませんので、それなりの英語力が必要だったりしますので、私としてはやはり「TED」でしょうか。 でも、「iTunes U」では東京大学を始め、日本の大学の講義も見れるので、とても楽しいです。

他にもいろいろ気になる記事はありますが、多すぎるのでもうひとつだけ。
「ツイッターの次に来るのはこれだ!急成長中の双方向メディアの実力」と題して,「タンブラー」というメディアについての記事ですが、ツイッターすらやっていない私には、もう次のが来るのかと恐れおののいています(笑)
今の私にとっては、ネット関係は、ニュース系のメルマガ(クーリエ・ジャポンにも紹介されていた、大前研一氏の『ニュースの視点』とか)やブログなどを読み切るだけでいっぱいいっぱいですが、ブログも始めたことだし、もう少し冒険してみようかな、なんて思ったりもします。
でもきっと、ツイッターは、時間があるときには常につぶやかなきゃおもしろく無いとか理由をつけて、たしいて使いこなせないくせして、iフォンとかに手をだそうとするのは目に見えているので、ブログとツイッターは別物なのでしょうけど、しばらくはこのブログをきちんとこなせるようになってからにしたいと思います(笑)。

2010年10月12日火曜日

『漢検ジャーナル』Vol.1 2010年秋号

財団法人日本漢字能力検定協会の情報誌だそうです。職場で、各クラスに1冊ずつ配られていました。一時期、少し問題があった漢検ですので、PRのためでしょうね。ただ、なんだかんだ言っても、英検と並んで、短大へ進学しようという女子生徒には人気の検定です。

巻頭には、京都大学総長松本紘氏と漢検理事長池坊保子氏との教育トークなのですが、その見出しが、「大学へ入ってからも伸びる子を育てよう」だったので、気になって読んでみた次第です。
「大学に入ってからも伸びる子」って? 私が目にする生徒は、大学に入る前に、すでに伸び悩んでいるのに、そんなのあり?という気がしたのですが、松本氏の意見は、「小さいうちから、将来あらゆることに対応できるような頭脳トレーニングをするべきである」ということのようです。そりゃ、おっしゃるとおりですよ。そういう子なら、大学に行っても伸びるでしょうが、それはごく一部の人間でしょうね。
今、現実の大学や高校、中学の子たちは、そういう訓練どころか、「学校5日制」やら「ゆとり教育」やらに振り回されて、疲れ切った義務教育の先生方が模索していく中で、でも結局十分なトレーニングができないまま、高校や大学に進学してしまった子どもたちですから、大学の先生方も困っているというのが現実なわけです。
そんなことを考えてながら読んでみると、この情報誌、誰を対象としたものなのか、よくわからないですけど、結構おもしろいですよ。 まあ、結局は漢検のPRなのですけどね。

もう一つ、おもしろかったのは、教員・保護者向けセミナーの抄録が載っているのですが、そのセミナー抄録の第2部「漢字力・国語力向上のための「辞書引き学習法」のススメ」と題した、中部大学現代教育学部の深谷圭助氏のものです。
付箋がこれでもかというくらい貼られた辞書の写真が載っているのですが、これ、ものすごく使いにくそうと、文章を読む前に気になってしまいました。貼り込みでデブになったモレスキンの比ではありません。明らかに、辞書の倍の厚みの付箋がはみ出しています。深谷氏には申しわけないですけど、これ、いったいなんなんでしょう?って感じです。
抄録を読むと、深谷氏は小学生に国語辞典や漢字辞典を活用する指導法をとられているということで、「知っている言葉」を辞書で引き、意味を確認したら付箋の上部に調べた言葉を書き、通し番号を書いた付箋を文字が隠れないように調べたページに貼り、それを繰り返す学習法なんだそうで、付箋がたくさん貼られるにつれて辞書の厚みが増し、子どもたちは「私はこれだけの言葉を知っている!」という達成感を持つことができる(!!)ということなのだそうです。「辞書を常に手の届く場所において、興味を持った言葉があればその都度辞書を引かせるようにしましょう」ということのようです。
確かに身近に辞書があればそれに越したことはないですが、高校になると、入学時に電子辞書の案内をしているこのご時世で、今の子が重たい紙の辞書を常に手元に置いておくでしょうか?(私は電子辞書をすすめることは、あまりいいことだとは思っていませんが、でも便利ですよね。ただ、学生が勉強のために使うのならば、やはり紙の辞書のほうが良いと思いますが。)
それに最初に言ったように、付箋が増えてくるとだんだん使いづらくなりますし、持って歩くのも不便ではないでしょうか?これで実際、どういう成果が出ているのか、興味津々です。こういう子たちは中学、高校へ行っても、紙の辞書、使い続けるんでしょうか?追跡調査とかしているんですかね?

私は決して批判しているわけではありません。単に知的好奇心で、おもしろがっているだけです。結局これ、誰が読んでいるんでしょうね?(あ、私が読んでますね。こうやって、ブログで取り上げていることで、良い宣伝になってしまいますね。別にそういう気は全くないですけど。でも良かったら、情報誌に原稿書かせてもらえないかなぁ(笑))

2010年10月11日月曜日

ダイソーのクリップペンホルダー

近所のダイソーで見つけました。




文房具が大好きで、文房具屋さんには不審者と思われるのではないかと自分で思うほど、一度入るとアチラコチラ行ったり来たりしている私なのですが、お小遣いもあまり多くはないので、そう頻繁に文房具屋さんで購入することはできません。
だからといって、ダイソーの文房具ではやはり品質的に合格点を出せるものは、そう多くないのですが、これはなかなかだと思います。

一番最初のブログに書いてあるのですが、最近エトランジェ ディ コスタリカのre-CollectionシリーズのPocketに、ダイゴーハンディーピックスモールサイズのBOOKBAND RULERとPEN HOLDERを使ったモレスキンもどきを、とにかく思いついたことを書き込むために使用していますが、現状でも、まずまず満足はしていますが、特にペンホルダーはゴムが引っかかるので、もう少しどうにかならないかと検討しているところなのです。
普段の仕様の、エトランジェ ディ コスタリカのre-CollectionシリーズのPocket + ダイゴーハンディーピックスモールサイズBOOKBAND RULER + ダイゴーハンディーピックスモールサイズPEN HOLDERを使ったモレスキンもどき 
ダイソーで発見したこのクリップペンホルダー、デザインフィルさんのトラベラーズノート用ペンホルダーにそっくりです。

下がダイソーのクリップペンホルダー、上は比較用のデザインフィルさんのペンホルダー  
 
ダイソーのクリップペンホルダーは、約8mmのペンがささるようになっていますが、8mmなのでかなり細いペンしか入りません。それじゃ、ペンのクリップを革の部分にひっかけて使えばと思うのですが、革がかなり柔らかいので、あまりうまくクリップが引っかかってくれません(私のやり方が下手なのかもしれませんが)。それと金属のノートに挟む部分もかなり固く、表紙の固いノートでないといい感じで挟めないかもしれません。
デザインフィルさんのものと比べてしまったら、デザインフィルさんのモノのほうが、革も硬くてしっかりしていますし、金属部分もちゃんと隙間が空いていてノートに挟みやすいように出来ていますので、使い心地は全く違いますが、まあ105円ですので、そう考えると悪くないかと思います。

モレスキンもどきに装着した様子(案外良い感じでしょう?105円には見えませんよね。)

ただ、普段付けている万年筆(セーラーのハイエースネオ)の本体が入らず、クリップだと引っ掛けづらいので、結局モレスキンもどきへの使用は見送りました。別の機会に活躍してくれることを期待して、引き出しのなかで待機してもらうことにしました(二つも買ってしまったんですが)。

2010年10月10日日曜日

『週刊金曜日』2010年10月8日 818号(その2)

(その1)では、尖閣諸島の問題についてを取り上げましたが、今回は記事、二つについてです。

一つめは、うつの治療に「森田療法」が再注目されているというものです。
「森田療法」と言えば、「あるがままの自分を認める」ということで有名で、教育の分野でも取り上げられることもありますし、私も少しカウンセリングをかじったことがあるので、少しは知っているつもりです。実際、教育現場では、教育相談的な場面で、「あるがままの自分を認める」という「森田療法」的な指導をしている場合も結構あります。
「森田療法」は禅的要素が強く、ほとんど精神修行のようなイメージがありますが、ただ最近のうつ病患者の急激な増加の中で、従来の投薬で治す治療法だけでは十分ではない部分もあると思います。その意味では、投薬で治す方法だけではなく、いくつかの治療法を組み合わせて、その人にとってよりよい治療法を見つけ出すうえでも、「森田療法」と同じ精神療法のなかでも、ポピュラーな「認知行動療法」の限界のなかで、再注目されてきた「森田療法」には、それなりに期待する部分はあるのでしょう。
現在のような投薬ばかりではなく、それ以外の方法があって、患者自身が自分にとって最適と信じる方法を選ぶことが出来れば、そのほうが患者にとってはプラスとなるでしょう。
また、教育の中でも、改めて「森田療法」の考え方を改めて取り入れてみるもの、良いかもしれません。私も、再び「森田療法」の関連書を読み直してみようと思います。

二つめは、「投書」の中に、公立中学校の社会科の先生からの投書があって、夏休みの「研修」に対して、「上からの指導」があるが、そのような指導は現場の教員のヤル気を失わせるだけだというものです。この先生は、毎年夏休みに研究テーマを設定し、膨大な「研修報告書」を書かれるということなんですが、「現場の教員ががんばるしかないのかと自分に言い聞かせ」たんだそうです。
社会科の教員にはこのような反骨精神とでも言おうか(表現が適切でなかったら、ごめんなさい)、向上心のある、志の高い方が多いような気がします。この投書のような先生がいてくださることが、今の日本の教育もまだまだ捨てたものではないと思わせてくれます(それにしても、この先生は凄いです。自分も見習わなければと思います)。

私の場合は、学校での仕事と、地域のことについて勉強する部分とは全く切り離して考えていますので、勉強が学校での授業に反映していることが多いですが、基本的に休暇をとって活動しています。いわゆる「二足のわらじ」の生活で、めげそうになることも度々ですが、幸いなことに地元の研究会の諸先輩方が叱咤激励してくださるので、細々ながら勉強し続けることが出来ています(ただ、師匠からすれば、お前、勉強が足らんとお叱りを受けそうですが)。
何事も、コツコツと続けることが大事なのです。いつか必ず、何かに結びつくと信じて。「学びたい」という欲求がどうしても捨てきれない自分を、「あるがままに認める」ことが、今の自分にとっては大切なのかもしれません(最後は自分自身のことになってしまいましたが、そんな自分だから、このブログのタイトルは「青年老いやすく、学成り難し」をもじったものにしたのです)。

2010年10月9日土曜日

『週刊金曜日』2010年10月8日 818号(その1)

ここ最近、毎週かかざす読んでいる唯一の週刊誌です。他にも週刊誌は読みますが、他の週刊誌は読みたい記事があるときだけ購入します。
私にとって、『週刊金曜日』を買うために毎週書店に行くという理由があることが、帰宅時に家の前を通りすぎてでも書店にいくための(いつも行く書店は、自宅の前の道を通りすぎていかなければならないので、帰りが遅くなるとどうしてもめんどくさいんです)モチベーションになっています。
『週刊金曜日』の発行体制を考えると、定期購読にしたほうが雑誌のためには良いのでしょうが(値段もいくらか割引になりますし)、そのおかげで定期的に新刊本をチェックすることができるので、しばらくは書店で買うでしょう(『週刊金曜日』さん、ごめんなさい。でも、応援してますよ)。

今週の『週刊金曜日』、表紙が尖閣諸島の、南小島、北小島、魚釣島を上空から写した写真です。この写真だけで、今週号は購入して満足です。魚釣島が少し霞んでいるのが残念ですが。
内容は、やはり「尖閣諸島 中国漁船衝突事件」についてがメインです。政府の対応を見ていると、やはり歴史に学んでいないなぁという印象を拭えません。過去をきちんと踏まえなければ、しっかりした対応はできないのです。今までも、このことは何度となく言われているはずなのに、何故ダメなんでしょうか?現在を考えるには、過去に学ばなければ、未来は開かれません。中国の指導者達はそのあたりのことがよくわかっているのだと思います(さすが、中国4000年の歴史ですね)。このままでは、日本は不利な立場になっていくような気がします。外交が難しいのはわかりますが、日本はあまりにも交渉がヘタです。日本の政治家たちには、近代史の研究者がブレーンとして付くべきです。

尖閣諸島問題に絡む記事でもう一つ、「ネット発のナショナリズム、尖閣抗議に約2000人」というタイトルの記事が気になります。10月2日に代々木公園で行われたデモについての記事です。
このデモについては、国内のメディアではほとんど報道されず、海外のメディアがしっかりと取材をしていたということが、話題になっていましたので知っていましたが、さすがは『週刊金曜日』です。
その中で気になったのは、「若者の姿が目立った」という部分です。 「反中」だが、「親米」ではなく、米軍の駐留は自衛隊の限界を考えた上とし、「ナショナリズム」を主張する若者達の存在は、先日「領土問題を考える」をテーマに行った私の授業で、北方領土や尖閣諸島、竹島の問題について考えた時の生徒の反応にやや似ています。
高校1年生なので、さすがに米軍の駐留を自衛隊の限界という点から考える生徒はほとんどいませんが(むしろ、いざとなれば米軍が守ってくれるはずと答える生徒が多かったのには驚きましたが)、「反中」の意識は強いようです。それが「ナショナリズム」なのかどうかについては考えていないようですが、中国に「頭にくる」、「腹がたつ」と答える彼らが、誤った「ナショナリズム」に目覚めないように、しっかりと歴史を学ばせようと思うのでした(しかし、彼らにとって世界史はカタカナの人名に苦慮し、日本史は漢字が読めず、結局どこまで知識として頭に入っているのか、かなり不安ですが。社会科の教員としては悩みどころです)。

北方領土に関するロシアのメドベージェフ大統領の発言についての最近の新聞記事も、北方領土についての歴史的経緯を簡単に説明すると、初めてその記事の意味が理解できたようで、「北方領土なんて知らなかった」「この記事はそういうことなんだ」というコメントが多かったのですが、この前も書きましたが、若者にもっとしっかり自分の国の歴史を学ばせないとダメですね。その上で「ナショナリズム」が出てくるとしたら、それはやむを得ないですが、全体的な流れをあまり知らないで、一部分の知識のみで「ナショナリズム」に向かうのは危険だと思います。
でも、どうして高校で「世界史」が必修なんでしょう?その点、神奈川県では「日本史」を高校生全員に取らせるようにするようです。県教委さん、静岡県でもそうしませんか?いや、いっそ「日本史」も必修にしましょうよ、文科省さん。それと受験で「日本史」を必修にしてくれる大学が増えるといいのになぁ。いやいやながらも高校生の段階でいちおう「日本史」を学べば、やらないよりはましでしょうから、日本も少しは変わってくるような気がするのですが。

今週の『週刊金曜日』は、他にも気になる記事がありますので、(その2)で触れたいと思います。

2010年10月8日金曜日

子どもが通知表を持ってきました。

我が家の上の子は、今年小学校1年生です。子どもの通っている小学校は、2学期制ということで、初めての通知表です。ただ、何かこの時期に成績が出るって、変な感じです。
私の勤務校は3学期制ですので、7月に1回目の通知表を出します。その後、夏休み中に三者面談なのは、多くの学校で行われていることでしょう。
長い夏休みを挟んでしまうと、気持ちの持ち方が違ってくるというか、夏休み中に子どもたちはいろいろ変わります(良い意味でも悪い意味でも)。 9月は、それを再び学校のリズムに戻す大切な時期なのに、成績を出さねばならないのは、先生方も大変なのでは?
耳にする限り、高校レベルでは、2学期制にしていた学校も、徐々に3学期制にもどしているところが多いと聞きます。成績が10月に出るとなると、少し長いというか、間延びしてしまうような気がするのは、私が2学期制を経験していないからなのでしょうか。私としては、評価・評定は定期的に短いスパンで行ない、度々振り返りができるようにしたほうが良いと思います。そのほうが子ども達にも、先生方にとっても良いように思うのですが。

ちなみは、我が家の子どもの成績は、・・・・・・・・・・1年生とはいえ、もう少し頑張らせたいですね(笑)。
でも、あの1年生の「よくできる」、「できる」、「努力したい」の評価基準って何なんでしょう?自分があの成績をつけなければいけないとしたら、かなり迷うのではないかと思います。「努力したい」ばかりをつけてしまうような気がします。高校では判断材料として定期テストとかがあったりしますので、その点数をもとにして、ある意味客観的に付けられるのですが。その意味では小学校の先生って、すごいなぁ。私ではとても務まりません。高校で良かった(笑)

2010年10月7日木曜日

セレンディピティ

このたび、ノーベル化学賞を受賞した北海道大学名誉教授鈴木章さんが、後進への指導に使っている言葉だそうです。
ウキペディアで見ると、 

セレンディピティ(英語serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。

となっているが、この言葉、過去のノーベル賞の受賞者のコメントなどにもよく見出されますし、ビジネス書や心理学関係の本などにも、たびたび出てきます。

確かに、日常的にこのような能力は大変大事でしょうし、有能な人はこのような能力をうまく発揮できるように努力しているのだと思います。少しでも学問を志しているものにとっては、大変重要な言葉だと思いますし、そのための努力をかかさないようにしなければいけないと思います。いや、そう有りたいものです。いや、そうなれたら、いいなぁ(だんだん弱気になる私(笑))。
少なくとも、このような出来事を、己を奮い起こすためのチャンスととらえる、前向きな姿勢は大事ですね。

2010年10月6日水曜日

「我が国国民の北方領土への入域の自粛要請について(周知依頼)」

様々なところから来る文書やお知らせを掲示してあるホワイトボードをふと見ると、目に飛び込んできたのが、タイトルの文書。
文部科学省初等中等教育局からの依頼があったので、所属職員に周知を依頼するという、県教委の教育総務課長名 で出された平成22年9月28日付け文書で、元の文部科学省からの文書もタイトルは同じ。その内容を一部転載すると、


我が国国民の北方領土への入域については、「我が国国民の北方領土入域問題について」(平成元年9月19日閣議了解)等に基づき、政府全体として、これを行わないように国民に対して要請してきたことろです。
今般、一部の我が国国民がロシアの出入国手続に従って北方領土に入域」した事実が確認されたことを受け、別添のとおり、内閣府(北方対策本部)及び外務省から改めて入域の自粛について関係機関等に周知するよう依頼がきておりますので、お知らせします。(後略)


というもので、別添資料である内閣府及び外務省からの通知は、9月3日付け内閣府北方対策本部審議官及び外務省欧州局長名の、文部科学省大臣官房長あての通知で、内容を一部転載。


我が国国民の北方領土への入域については、政府は、「我が国国民の北方領土入域問題について」(平成元年9月19日閣議了解)を始めとする累次の閣議了解により、これを行わないよう国民に対し要請してきたところです。
今般、一部の我が国国民が企業活動及び観光を目的として、ロシアの出入域手続に従って北方領土に入域した事実が確認されました。このような行為は、我が国固有の領土たる北方領土に関する国民の総意及びそれに基づく政府の政策と相容れないものであり、国民に対し、この問題に対する正しい理解を求める必要があります。(後略)


つまり、この夏どこかの旅行会社が、ロシアの出入国手続きに従って、北方領土の観光ツアーか何かで北方領土へ行ったのは、北方領土の支配権がロシアにあることを認めるような行為であるとして、政府が怒っているわけですね。だから、文部科学省を通じて、各学校へも北方領土への入域を自粛するように周知する文書を出したというわけでなのですね。

このような文書が高校にまで来ているとうことに驚いたのと同時に、いったいどれくらいの人間がこの文書をみているのだろうかと。たぶん、このような文書はいままでも出され、学校にも通知されてきていたのだろうけど、全く気がつかなかったです。

最近、ロシアの メドヴェージェフ大統領が近いうちに北方領土に行くというコメントを出していたのは、基本的には尖閣諸島や竹島の問題あたりが大きな原因なのでしょうけど、この文書の内容なども原因の一つなのだろうか。細かいことはわからないが、この文書の内容、ちゃんと周知されていないだろうなぁ、きっと。今回、ブログで取り上げたことで、多少周知に貢献したかなぁ。

ちなみに、私は北方領土返還を強く要求するとか、そういう政治的なことにはあまり興味はありません。ただ歴史を学ぶものの端くれとして、北方領土問題は避けて通れない話題ですし、なにより最近の日本の若者は(若者に限らないかもしれませんが)、歴史を知らなすぎるといつも思っていますので(この夏NHKで放映した日韓併合100年に関しての、日本と韓国の大学生の討論を見た方は、そう感じた方が多いのではないかと思いますが)、近いうちにネタとして使ってみようと、そう思ったわけです。

 なお、平成元年9月19日の閣議了解の文書も、私は初めてみたので、以下に内容を転載。


戦後40年以上を経た今日も我が国固有の 領土である北方領土のソ連による不法占拠が継続しており、政府は、国民の総意及び国会の関係諸決議に基づき北方領土返還を実現するための交渉を行っている。
このような状況の下で、最近一部の我が国国民がソ連当局の査証の発給を受けて北方領土に入域するという事例が見られたが、我が国国民がソ連の出入国手続に従うことを始めとしてソ連の不法占拠の下で北方領土に入域することは、我が国固有の領土たる北方領土に関する国民の総意及びそれに基づく政府の政策と相いれないものである。
このことについて、我が国の多数の遺族が過去に10年間にもわたり人道上の問題である北方領土墓参の中断を余儀なくされたことが想起されるべきである。
以上をかんがみ、政府は、国民に対し、北方領土問題の解決までの間、このような北方領土への入域を行わないよう要請することとする。


また、これら以外にも平成3年10月29日閣議了解(平成12年12月26日一部改正、平成13年1月6日施行)、平成10年4月17日閣議了解(平成12年12月26日一部改正、平成13年1月6日施行)、平成11年9月10日閣議了解のそれぞれの文書も添付されていましたが、転載は省略しました。

2010年10月5日火曜日

「先生!アフリカって国?」

私は、一年生の現代社会の授業で、NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)を実践をしています。
今日の授業は、生徒に課題として取り組ませている新聞スクラップの中から、「近年、対アフリカ貿易が拡大している」という内容の新聞記事を読ませていた時の、ある生徒の発言です。
 一瞬「???」と思いましたが、すぐに地図帳を広げさせて、「アフリカ大陸」を探させたのは言うまでもありません。
「サハラ砂漠ってわかる?」って質問したところ、「ゴビ砂漠なら知ってる!!」
何故ゴビ砂漠は知ってて、アフリカがわからないの?????
「じゃ、ゴビ砂漠ってどこ?」、「それは知らない。」
その後、十分ほど現代社会の授業が地理の時間になりました(笑)

「この間サッカーのW杯をやった、南アフリカって何だと思っていたの?」という私の問いに、生徒は「静岡県とかと同じ県とか、州とかだと思った」、「だって、中学ではやってないもん!」。

確かに、中学校の地理では、全世界をくまなく学ぶわけではなく、特定の何カ国かを学ぶだけのようです。う~ん、来年の科目選択に地理があるんだけど、この子達・・・。


ただ、このようなやりとり、実は近年では頻繁にあります、2年生でも、3年生でも。
世界史をやってても、フランスと言う国とパリと言う国があると思っている場合もあったり、イギリスとイタリアの区別がつかなかったり。おまけに「カタカナがむずい!」(コラ!カタカナは日本語だぞ!!)日本史やってても、「漢字がわからん!」(あ、それは最近は大人も一緒かぁ。私も黒板に向かって、よくチョークが止まります(笑))。

大学で、話しが通じない、授業が成立しないって聞きますが、そりゃそうでしょう。高校ではこんなですもの。高大連携って動きがあるのも納得です。大学の先生、学問どころじゃないですよね。私だって、頻繁に何を指導しているのかわからなくなります。もっと崇高(笑)な授業をしたいです。でも、教育は現場を見て、相手を見て判断しないといけませんから・・・。難しいです。

『FILM&IMAGE』VOL21 2010 Autumn

今日、家に帰ってきたら、タイトルの雑誌が届いていました。

今回の表紙はみごとな砂漠の写真。特集は「サハラ、千年の旅」と題した、大塚雅貴氏のサハラ砂漠の写真と冒険譚です。砂漠に生きる人々の力強さに感動します。
ただ、自分が気に入ったのは、バスの停留所を取り続けている柴田秀一郎氏です。モノクロでとられたバス停には、それぞれの地域によって様々な表情があります。バス停に待っている人が一緒だったり、ぽつんとバス停だけがただ立っているだけだったり。
柴田氏は会社に勤めながら、32歳から4年間写真の勉強をして、今年の3月に写真集『バス停留所』をだしたそうです。そんな柴田氏の言葉がいいです。
「写真は、年をとってから始めても、カタチになることを伝えたい。」
写真好きがその気になっちゃう (笑) 一言ですね。私はやられました(笑)

かつて、仕事の一部として写真を撮っていました。4×5もかなり忘れていますが、なんとか扱えます(たぶん、体が覚えていてくれるでしょう(笑)) 。そのせいもあって、やっぱりフィルムに惹かれるのです。ただ、最近はあまり撮る機会がありませんし、やっぱり便利なのでデジカメも使います。でも、記録として考えると、デジカメでも撮りますが、フィルムでとっておかないとなんとなく不安ですし、デジタルデータは改ざんできちゃいますから(最近ありましたよね、フロッピーの件が)、記録としてはどうなんだろうっていう気持ちがあります。
ただ、最近、県から依頼された仕事でも記録写真を撮る必要性があったのですが、支給されたのはフィルムではなくCD-Rだったのには少し驚きを感じました(いちおう、県の名誉(?)のために付け加えると、フィルムが必要な方はお申し出くださいってアナウンスがありましたけど。いちいち申し出るのも面倒でしたし、なんとなく気が引けたので、おとなしくそのままCD-Rをもらって、それにデータを焼いて提出する、気の弱い私なのでした(笑))。

ここ数年、フィルムや紙焼きの保存に関する研究もだいぶ進んできていて、今年に入ってからも岩田書院さんから、資料保存(アーカイブズ)の方向からのアプローチだと思われる、『写真保存の実務』と『劣化する戦後写真』の二つのブックレットが出ています(この情報は、岩田書院さんの新刊ニュース、図書目録で見ただけで、実物はまだ購入していません。新刊ニュースに「岩田書院ブックレット・アーカイブズ系」って書いてあるので、そう思っただけで、本当は違っていたらごめんなさい。買おうと思っているうちに、うっかり忘れたままでした。また忘れないうちに買わなきゃ)。

なお、『FILM&IMAGE』は書店では扱っていません。富士ファイルムがフィルムの良さを広めるために作った雑誌なので、富士フィルムの直販公式ショップ「フジフィルムモール」(http://fujifilmmall.jp/shop/)から購入できます。1冊400円です。写真好き、それも写真はやっぱりフィルムだよねという方には、ぜひおすすめです。私は 創刊号から定期購読しています。フィルム写真ならではの美しさに毎号うっとりしています。

2010年10月3日日曜日

琉球への思い

自己紹介の欄にあるハンドルネーム。「アチャ」は、奄美・沖縄地方で(島によっては、多少違いもあるようですが)、「お父さん」の意味(ちなみに「お母さん」は「アマ」)。つまり「ヤマアチャ」とは「ヤマお父さん」ということです。
私の父はこの地方のある島の出身で、「ヤマ」は我が家に受け継がれる通り名のひとつで、私の祖父から受け継いだものです。今では、通り名はほとんど受け継がれていないようですが。
私の父は本家の長男格だったのですが、当時貧しかった家を助けたいと中学を卒業してすぐに内地に仕事に出てきてしまい、昨年この静岡で土に帰りました。
それゆえ、特別な思いがあったようで、その思いを長男である私に受け継がせたかったのだと思います。奄美・沖縄地方には「ユタ」とか「ノロ」とか呼ばれる巫女のような、下北半島の「イタコ」的な存在があるのですが、我が家の祖先について語ってくれるノロによると、我が家の祖先は沖縄県中部の平安座島(へんざじま)の按司(あじ)で、北山の中の有力な一族であるということなのです。歴史を学ぶものの端くれとしては、どこまで信じて良いのか、なかなか資料的な裏付けがとれないのですが、少なくとも琉球にゆかりがあることだけは確かなようです。ですから、「沖縄」というよりは、自分的には「琉球」なのです。

そのような個人的事情もあり、またいちおう高校の社会科の教員ということもあって、先日の尖閣諸島の問題や普天間基地の問題には大変強い関心があります。その方面のことで、私の情報源のひとつになっているサイトが、

「地元紙で識るオキナワ」。

その中での『琉球新報』10月2日の「佐藤優のウチナー評論」 は、とても納得。佐藤優氏はいろいろな雑誌で拝見するが、その知識量には大変驚かされる一方、己の勉強不足が身にしみ、自分ももっと勉強しなくてはと思わせてくれる存在です。

 このサイト、内地ではほとんど知ることのできない地元ならではの情報が満載なので、内地の新聞に物足りなさを感じている方にはおすすめです。

 

2010年10月2日土曜日

ブログ、始めました。

先月、40歳になりました。孔子は「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。云々。」と言っていますが、40歳になった私は、「四十にして、ますます惑」っています。当然、孔子のようにいかないのは、百も承知ですが、そうありたいと思ってきました。
その私が40歳になったのを機にブログを始めたのは、この「惑い」の中で、今自分が考えていることを何かの形で記録しておきたいと思い立ったからです。何かコツコツやっていくなかで、何か得られることも出てくるのではないかと。

いちおう、高校の社会科の教員なので、静岡県の近現代史をメインに、少しは勉強しています。
最近は、マイケル・サンデルブーム(?)の影響で、その辺のことも勉強しはじめました。
政治的にはリベラルなつもりだったのですが、サンデルの話には共感を覚えることが多いのですが、しかし完全にコミュニタリアニズムを理解できていないので、 自分がコミュ二タリアンかどうか、判断に迷うところです。
『週刊東洋経済』の8月14-21合併号の特集の中にあった、北大の橋本教授の『経済倫理=あなたは、なに主義?』からの簡易診断テストをやったら、政治的にはややリベラリズムより、経済的にはリベラリズムとコミュニタリアニズムの間になりました。こんなところでも、「惑い」がでているのでしょうか(笑)?

このように他の方が見れば、「何をくだらないことを」と思われる投稿が多くなるでしょうけど、せっかく思い立ったので、勉強のこと、趣味的なことなどを中心にしばらく書いてみるつもりです。もしかしたら、どなたか共感してくれる方がいるかも知れませんし。

ちなみにミーハーな私は、同じような理由でかなり以前からとても気になっていたモレスキン(モールスキンと表記する場合もあるようですけど)を、清水の舞台から飛び降りる覚悟で(たかがノートですが、されどです。だって、1890円もするんですもの、)購入してみました。これで何かできるのではないかと。
ただ、根っからの貧乏性なので、近所の文房具屋で発見した、エトランジェ ディ コスタリカのre-CollectionシリーズのPocketに、ダイゴーハンディーピックスモールサイズのBOOKBAND RULERとPEN HOLDERを使った、モレスキンもどきを使い始めました。本物は、ビニールをかけたまま、しばらくは観賞用です(結局、無駄使い?)。