2010年10月16日土曜日

『from 911/USAレポート』第480回                   「首都の教育改革に猛進したミッシェル・ルーの無念とは?」を読んで

JMM [Japan Mail Media] No.605 Saturday Editionで、冷泉彰彦氏という米国ニュージャージー州在住の作家さんのレポートを読んで、日本の教育の問題点を指摘した部分について、現役の一高校教員が感じたことを述べてみます。

冷泉氏は、5つに整理していますので、一つ一つについてコメントしてみます。

(1)アメリカの教育問題は、貧困層対策と中間層の底上げに優先順位を絞ればいいが、日本の場合は貧困層向けの教育の崩壊度合いもひどければ、エリート教育がそもそも存在しない一方で、中間層のレベル低下も起きており、改革しなくてはならない範囲が広すぎる。

これについては納得というか、まさにそのとおりだと思います。高校は、地域ごとに高校の序列(順位)がありますが、そのトップが徹底したエリート教育をしているかといえば、そんなことはないわけです。特に地方の公立高校の教員は、「異動」で別の学校に行くので、教える側のレベルが極端に違うということはありえませんし、公教育では格差があることは問題になります。地方でその地域のトップ校が公立高校だとすれば、底辺校と比べて、エリート教育と呼べるほどの違いがある教育をしているとは思えません。
もし私がトップ校に勤務したとしても、少なくとも大学受験レベルはどんな高校から受験するにしても同じなので、教える分量(知識として伝える情報量)が違ってくることはあると思いますが、受験に熱心な学校になればなるほど、教科書から大きく逸脱した内容の授業は行わないでしょう。
貧困層の崩壊が極端かは私にはわかりませんが、中学校の卒業生が、高校へ進学する割合は相変わらず高いのですが、100%ではありません。進学しない数%の生徒が貧困層の可能性もありますが、具体的にはわかりませんので、コメントは差し控えます。
中間層のレベル低下については、まさにそのとおりです。おそらく、普通の公立高校は中間層なのでしょうが、昔に比べて(具体的に何年前とは言えませんが、7、8年前あたりから)明らかに生徒の学習レベルは低くなっていると感じます。

(2)日本の場合は、全体として子どもが嫌がる反復訓練について、自発性を動機づける教育技術が全く確立しておらず、家庭での動機づけ機能が失われると救いようがない。その一方で、高校までの段階では機械的な設問への正答探しという狭い技能教育しか行われておらず、抽象概念の操作や相互性のある議論の訓練がほとんど行われないなど、そもそも親や教師が次世代に「モノを教える文化」の根っこが崩れている。

これには、全く反論の余地はありません。現場の教員が日々取り組んでいるのは、まさにこの「自発性を動機づける教育技術」だと思います。いかにして「やる気」を持たせ、自学自習の習慣を身につけさせるか、いかにして「やる気」を持続させるかについて、私自身も常に悩みながら指導しているのです。「高校までの段階では機械的な設問への正当探しという狭い技術教育しか行われておらず」という部分もまさにそのとおりなのですが、弁解させてもらうと、(1)に対しての部分にも書きましたが、大学受験レベルはまさに「機械的な設問への正当探し」の能力が問われるわけで、受験に熱心な「進学校」であればあるほど、そのような教育が重視されるのが高校の現状なのです。
 
(3)短く微温的な文章の無意味な分析ばかりで大冊の読書や厳格なエッセイ執筆訓練がオプションになっている国語、翻訳法の痕跡の濃い誤ったメソッドの続く英語、15歳の晩春に「自分は私立文系」と決めた途端に「完全に降りる」ことを許す無責任な数学カリキュラム、理社科に関しては最先端や同時代性とは程遠い一方で、裁判員や納税者予備軍としての社会人教育も存在しないなど、全般的にカリキュラムが無効化している。

これについては、現場の教員としては、反論します。(2)のコメントに書いたように、学習への動機づけに日々努力している現場の教員たちは、大学受験レベルを意識しながら、様々な工夫を施した授業を展開しています。カリキュラムが全く無効化しているとは言えないと思います。社会科の教員ですから、社会科について言うと、裁判員制度についてや税を考えるものなどの授業は、全国で多くの優れた教育実践が行われていますし、常に勉強して新しい知識を増やす努力をしている多くの社会科の教員がいることを指摘しておきます。

(4)そもそも「ホンモノの受験教育」は塾に任せて小中高は形骸化し、「ホンモノの実学」は企業内教育が担うとして大学教育に社会が期待しないという二重のムダがあり、その企業内教育も国際水準には全く遅れているばかりか、コスト的にできなくなりつつあるという「国としての人材育成のフレーム」が完全に壊れている現状。

「小中高の形骸化」は、(3)のコメントのとおり、そんなことはありません。「ホンモノの実学」については、そういう一面もあるかもしれませんが、企業についてはわかりませんので、コメントを差し控えます。

(5)教員組合だけでなく、制服業者から紙の教科書業者までアメリカとは比較にならないほどの裾野の広い既得権益の存在。能力主義による改革を叫ぶ層が、実は「歴史認識で戦後国際社会に敵対するイデオロギー」のグループであることが多く世論の中核とは距離がある。その結果として、硬直化した組合へ改革を促す動きが大きな流れにならないという政治的貧困。

「既得権益」については、そういう一面は否定できませんが、裾野が広いゆえに、その既得権益がそれほど大きなものではなく、これによる弊害はそれほど大きくないと見ています。少なくとも、現場の教員レベルでその弊害を感じることはありません。「歴史認識で戦後国際社会に敵対するイデオロギー」のグループとは、何のことをさして言っているのか、いまいちわかりませんので、世論の中核から距離があるかはわかりません。むしろ、日本において「世論」がどれほどあてにできるのか、「世論」とはどこにあるのかがよくわかりませんので、これ以上のコメントはやめておきます。

このように、現状の教育についての捉え方は、私とは少し違いますが、ただし、最後に冷泉氏が、

そうではあっても、いや、そうだからこそ、私はミッシェル・ルー氏の今後に注目したいと思うのです。底辺層から中間層の教育の底上げというような領域で、まさかアメリカが日本を上回ってくるようなことになれば、日本がこれまで北米市場を中心に謳歌してきた外需依存の経済構造も行き詰まるでしょう。ですが、それはすぐ先のことではありません。ルー氏の行動を参考に、日本も改革に取り組む時間はまだあるのです。

という指摘には、全く同感です。

『from 911/USAレポート』第480回
「首都の教育改革に猛進したミッシェル・ルーの無念とは?」
冷泉彰彦   :作家(米国ニュージャージー州在住)

JMM [Japan Mail Media] No.605 Saturday Edition

【発行】  有限会社 村上龍事務所
【編集】  村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】   ( http://ryumurakami.jmm.co.jp/ )

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