(その1)に続き、(その2)として、横浜市で使用が始まった自由社版中学校歴史教科書の記事についてです。
そもそも何故、横浜市の教育委員は自由社版中学校歴史教科書を採択したのでしょうか?当然、これによって何らかのメリットが生じるのでしょうが、一体なんなのでしょうか(お金かなぁ)?そもそも、教育委員の見識ってどの程度のものなのでしょうか?正直言ってあやしいような気がしますが。
横浜市教職員組合による「中学校歴史資料集」に関しては、むしろこの忙しいなので、よく頑張っているなぁと思います。このような先生方の情熱があれば、自由社版の教科書でも、何の問題もないのではないかと思うのですが(楽天的すぎますか?)。
それよりも、これに対する義家弘介参議院議員(この方、いつの間にか議員になっていたんですね。)の批判は、その批判自身が「歪曲したイデオロギー」であり、「背信行為」なのではないでしょうか?義家氏ってこういう人だったんですね。北星学園余市高等学校をやめて、横浜市教育委員会教育委員に就任した頃からの関係なんでしょうけどね。まぁ、この人はこの人なりにやっているんでしょうけど、正直言って、歴史問題には素人ですね。発言するのなら、しっかり勉強してからにしたほうが本人のためだと思いますが。
そもそも自由社版の歴史教科書の問題は、記事にもある横山百合子帝京大学教授の指摘にある、
「さまざまな「事実」の存在に目をつむり「物語」を主張するために、繰り返し「事実」を無視した誤りが生み出されている」
という点なのです。教科書なのに、「事実を無視した誤り」があるなんて、そもそも教科書としては相応しくないわけで、イデオロギー以前の問題です。
文科省も「誤り」のある教科書を、よく検定をパスさせたものです。教科書検定制は何のためにあるのでしょうか?かつての家永教科書裁判の、「検定制度は、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」としている判決を逆手にとって、自由社版に「お墨付き」を与えているだけのように感じます。
「自由社版は、天皇中心の歴史観が強すぎ、日本に都合の良い記述が多い。この教科書だけでは、生徒に多面的な見方を身に付けさせることはできないので、他社の教科書も利用して独自プリントを作成し」ているという、取材を受けた横浜市の中学校教諭の言葉が記事には載っているが、これに関してはやや疑問があります。というのは、仮に他の教科書で教えたら、多面的な見方を身に付けさせることができるのでしょうか?正直言って中学生くらいでは、どんな教科書を使っても、教員の教える中身をそのまま鵜呑みにすると思います。もし仮に多面的な見方を身につけることができる生徒がいたとしても、それはほんのごくわずかでしょう。
歴史は、そもそもそれを語る人物のイデオロギーが含まれているものです。ただ、そのことを理解した上で、歴史を見る目を養わせる必要があるかと思います。
多面的な見方を身に付けさせたいのならば、自由社版とそれ以外の会社の教科書を数冊用意して、読む比べをしながら教えていくほうが良いと思います。あるいは、他の教科書と比べて、自由社版の教科書の記述の違いを生徒に読み取らせるほうが、問題点を指摘しやすいですし、よほど教育的効果が高いのではないかと思うのですが。
NIEでは、よく各紙の読み比べをして、メディアリテラシーの力を養ったりしているのですが、これを教科書でやれば良いのです。教科書といえども書籍なわけですし、自由社版の教科書を逆手にとって、いわゆる反面教師的教科書として扱えばよいのではないでしょうか?
それに、文科省の「教科書観を変える」という発想、つまり教科書に載っていることを「必ずしもすべて取り上げなくてもよい」のならば、間違っていたり、偏っていたりする部分はその教科書を使って取り上げるのは、やめてしまえば良いのではないでしょうか?
「教科書を教える」のではなく、「教科書で教え」てしまえば、自由社版の教科書は、むしろ格好の教材だと思います。
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