2011年2月10日木曜日

日本人としての教養

今日2月10日のBLOGOSに、矢澤豊氏の「教養」のない日本のエリート教育」がエントリーされています。

日本のトップクラスの知性を養成するはずのエリート教育を経て、エリート・キャリアを邁進し、ついには国政を左右する立場に立っている人物に、「日本人と しての教養」というものが驚くほど欠けているのではないかという危惧である。私が論じたいのは、上記した方々の個人の資質ではない。現代日本で行われている教育、特に「エリート教育」というものの内容に疑問を呈している。


矢澤氏のエントリーの趣旨は、このようなことなのですが、ここで矢澤氏が言っている「日本人としての教養」とは、エントリー内容から見る限り、「日本の歴史的知識を含む日本についての知識」のことを言っているように思います。まぁ、そんなに細かく言わないならば、つまりは「歴史を知らない」ということでしょうか。

そもそも、日本でエリート教育が行われているのか?という点は疑問ですが、大きくゆずって仮にエリート教育を行っているとしても、今のエリートと呼ばれるレベルの人間は、単に受験競争を勝ち抜いてきた人間であるだけで、受験勉強などには優れた能力を発揮してきたワケですが、その受験に必要な知識は、いわゆる「教養」ではないわけです。従って、そのような道を勝ち抜いて、結果的にエリート層となった人間に、「教養」がないのは当たり前です。 
また、日本では「教養」をあまり重んじない風潮がありますから、受験エリートにとって「教養」は無意味なものなのです。なんせ日本では、「パンキョウ(一「般」教「養」)などと呼ばれるくらいですから。そのあたりは、西洋のように「リベラル・アーツ」を重視する風潮とは違います。
ただ賢いから、人によっては年齢を重ねてくると「教養」の重要性に気づくようになるわけです。

大学入試センター試験においても、歴史離れが進んでいます。「日本人としての教養」の必要性を考えるならば、当然「日本史」が重視されてしかるべきですが、現在高校での必修は「世界史」です。しかし、その「世界史」は大学入試センター試験での受験者数はかなり少なくなってきています。

私も歴史教員の端くれとして、別にエリート教育じゃなくても良いので、せめて「日本史」を必修にして、「日本史」を学ばないで大学に進学する人たちが居ないようになって欲しいなぁと思います。そういうことを言うと、直ぐに戦前の教育を意識して過剰に反対する人たちが居ますが、世界的に見て自分の国の歴史を学ばないで大学に進学する学生が、日本ほど多い国は他に無いはずです(しっかり調べたわけではないので、一般論としてですが)。自分の生まれ育った場所の歴史を知らないで、その土地の人間としてのアイデンティティが確立できるわけがないと思います。人間は、皆自分が生まれ育った土地に根ざして生きているのです。だからこそ、自分を支えてくれる土地のために、頑張ることができるのです。今の日本にはそれが欠けているからこそ、今のような行き先がはっきりしない状況になってしまっているように思います。

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