2010年10月31日日曜日

日中関係、どうなる?

また、廊下外交だそうです、それも10分間。
ウチの妻が、朝、子どもを集合場所まで送ってくる帰りに、近所の奥様方とおしゃべりしてくるのなど、それより長いですよ。

テレビのニュースなどによると、やはり原因は前原外務大臣のようですね。度々の発言を聞いていれば、そりゃ、中国は気分が悪いだろうと思います。
ここまで事態がこじれてきているのに、自己の主張を頑として曲げない外務大臣って、何のために外務大臣をやっているのか考えていないんじゃないか、そもそも外交が分かっていないんだろうなって思います。こりゃ、まずいかなぁってことくらい、素人でもわかりますよ。
いつまでこのままでいるつもりなんですかね。まさか、次のAPECまで持ち越すなんてこと、・・・・・・あるかも。

前原さん、中国と本気で喧嘩するつもりなんですかねぇ。まぁ、ここまでの発言は、失敗に次ぐ失敗ですけど、いい加減、現状をきちんと認識しなおして、問題は正すべきだと思います。いくら日本国民がアホだからって(いゃ、アホは私だけですけど)、ここまで来たら、ごまかせませんから。

そんな偉そうなこと言える立場でもないですけど、私みたいな人間にまでそう思われるようじゃ、政治家、おしまいですって。少なくとも外務大臣はやめるべきだと思います。

2010年10月30日土曜日

『週刊金曜日』2010年10月29日 第821号(その2)

台風が直撃しなくて、ホッとしています。予定していた模試は延期になりましたが、部活もできないので、結局久しぶりに休日になったんですが、気圧の関係か、頭が重くて、午後は寝てしまい、せっかくの休日なのに、何もできませんでした。そこで、あまり硬い話題ではなく、ホンワカした話題でいきます。

 「知っているようで知らなかったお米のはなし」5で、「「はじめちょろちょろ」で米を炊く」という記事がありました。執筆されている佐藤洋一郎氏は昔静岡大学農学部にいらしたので、何かの時に数回お見かけしたことがあります。現在は総合地球環境研究所副所長、教授でいらっしゃるんですね。

「はじめちょろちょろなかぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」とは、うまい米の炊き方として有名ですね。昔、米をマキを使ってカマドで炊いていた時のコツなわけですが、私も若い頃は野外炊飯をよくやりましたので、この方法がうまい米の炊き方であることは、身を持って経験しています。
ただ、この言葉、実際にやってみないと意味がよくわからないと思います。「はじめ」っていつのことか、中ってどのくらいの状態かなど、慣れていないうちは必ず失敗するでしょう。
そもそもマキで火をつければ、ガスなどのように急に強い火になることはありませんから、これが「はじめちょろちょろ」なんですが、現代人はそのへんのことがわからないので、、出だしで失敗します。
マキは火がつき始めれば、強い火力になりますので、そこで一気に沸騰させて、均一に熱を加えないとうまい飯にはありつけません。これが「なかぱっぱ」です。
「赤子泣いてもふた取るな」は、つまり蒸らしが大事ということです。ここで余熱で余分な水分を飛ばすと、ふっくらした美味しいご飯が炊けるのです。

新米が出ている時期ですので、野外炊飯は無理にしても、土鍋などの厚手の鍋で炊飯してみると、本当に米ってうまいと感じることができると思います。あとは大根の味噌汁と漬物があれば何もいうことなしです。

しかし、日本人の米の消費が減っています。少し前に授業でこの問題を扱ったときに、生徒にお米をどのくらい食べるか聞いてみたところ、一日三食のうち、米を一度も食べないときが結構あるという生徒がクラスの半分ほどいたのには驚きました。  一体何を食べているのかと思ったら、パン食だと言うのです。それも女の子だけではなく、男の子の中にもそういう子が何人かいたことにさらに驚きました。「おじいちゃん、おばあちゃんはお米じゃないと絶対ダメっていうけど、私たちはお米がなくても平気」って言っていた女の子がいましたが、これでは米の消費が減るのも仕方が無いですね。

ただ、おもしろいのは、「じゃ、お米がなくなっても良いね」という私の発言には、反対するんです。「自分はお米を食べなくてもいいけど、日本人の主食はやっぱりお米だから、なくなったら困る」というんです。

まあ、私自身、食事=お米の人ですから、パンで食事が終わるなんてありえません。我が家の小学一年生は、朝パンを食べていることも多いのですが、学区のなかでは一番遠いので、お米を食べたほうが良いのにと思っていますが。
私にとって、パンはおやつですね。お米を食べて、プラスアルファで、子どもが残したパンなどを食べるという感じです。だから、この間も遊びに来た卒業生に「先生、太った?」って言われてしまうんですけどね(笑)

2010年10月29日金曜日

『週刊金曜日』2010年10月29日 第821号(その1)

特集は「FREEビジネスの危うさ」です。

何故、Googleは無料(フリー)なのかについて、なるほど、そうだったんですね。確かに検索履歴や閲覧履歴などから、その個人の嗜好(思考も)がわかりますね。うまい手を考えたものです。

しかし、そうは言っても、ホームはGoogleですし、当然検索もGoogleです。このブログだってそうですし、Gmailはもう手放せません。
「自分の情報を差し出している」と言われるとそのとおりなんですが、便利なものは仕方が無いですし、今さらGoogleがない生活は考えられません(ちょっと大げさかな)。

確かに、検索して変なものが上位に来ることもありますが、そもそもネット自体がメデイアリテラシーの対象ですので、注意を要するものです。しかし、そのことを大前提にしていれば、多少の情報提供は仕方がないとするしかないでしょう。Googleのシステムを考案した方への敬意だと、自分に言い聞かせて納得してしまいました。少なくとも、一ユーザーとしては、これくらいしかできないでしょう。

「ただより高いものはない」

この言葉、頻繁に耳にするものですが、この言葉くらい、「後悔先に立たず」の言葉はないでしょう。何せ、人間はなかなか懲りないですし、自分のことを考えれば、やはり「FREE」とか「割引」とかの言葉に弱いですから。

2010年10月28日木曜日

読書週間

昨日27日から11月9日まで読書週間です。今年は国民読書年なんだそうです。国民読書年って何だ?と思って調べたら、何でも、「文字・活字文化振興法」の制定・施行5周年なので、2010年の今年がそうなんだそうです。

ただ、「大人の4人に1人が本を読まない」という統計が発表されている現在、この国民読書年ってどれだけ浸透しているのか、「文字・活字文化振興法」でどれだけ活性化しているのだろうかと疑問に思います。

しかし、今年は「電子書籍元年」などと言われているように、電子書籍が大変話題になっています。『週刊ダイヤモンド』2010年10月16日号でも、大々的に電子書籍の特集が組まれていました。電子書籍によって、幾らかは読書する人間が増えるのでしょうか?
 確かに、入手が楽になりますし、端末一つで、いろんな本が読めるというメリットがありますが、今の私にとっては、まだあまり触手が動きません。

私としては、定期的に本屋に出かけて、一通りぐるっと見て回るのが楽しいのです。それほど買う気があって入るわけではないときでも、いつも行く馴染みの本屋でも、行くたびに意外と新たな発見があるものです。それは、新刊本のときもありますし、少し前に刊行された本のときもあります。本屋は、その一覧性こそがメリットなのでしょう。電子書籍では、このようなことはないでしょうね。

一覧性のメリットといえば、新聞を読むことも同じですね。一年生の授業でNIEに取り組む私としては、新聞スクラップの宿題を通して、生徒にそのことを気づいて欲しいのですが、嫌々やってくるものが多いのが現実です。それでも、まだやってくる生徒は良いです。おそらく知らず知らずのうちに、新聞の一覧性の効果がいずれ出てくるはずですから。というか、そうなることを信じていないと、毎回生徒の人数分の新聞スクラップにコメントするこちらが嫌になってしまいますから(笑)

ちなみに、毎日職場に持って行くカバンの中には、必ず数冊の本が入っているのですが、今は自治体史の校正原稿が幅を効かせていて、なかなか本を読む機会がありません。嫌々やっている(笑)ものですから、なかなか終わらなくて。息抜きと称して、持っていった本を数ページ読んでしまったりして現実逃避(笑)するものですから、なおさら遅くなってます。この週末に模擬試験があるので、その監督をしがてら、なんとかやり終えないと。ただ、台風が心配です。

2010年10月27日水曜日

東大生は"我慢大会の勝者"なだけ?

BLOGOSに、タイトルのトピックスがあったので、これを取り上げさせていただきます。

元ネタは、城繁幸氏のブログ「Joe's Labo」 の、「週刊プレイボーイ最新号」という記事です。週刊プレイボーイの最新号を見てはいないのですが、「週刊プレイボーイ最新号」の中に、ジョブウェブの佐藤孝治氏の分析する受験エリートの弱点が出ているそうです。

社会人とのコミュニケーションが苦手
暗記は得意だが、主体的に物事を考えない
自分のPRポイントがわからない
志望動機が語れない
何がしたいのかわからない

そして、その結論が、「東大生なんて全国暗記我慢大会の勝者でしかない」ということなのです。

これに対して、城氏は、

もちろん受験エリート全員がそうではないけど、入試突破時点で人間として歩みを止めてしまっている若者が実に多い。

とコメントしています。 このコメントには同感です。しかし、佐藤氏の受験エリートの弱点には、やや?です。

佐藤氏が指摘している受験エリートの弱点としているものは、受験エリートに限らず、現代の若者全体に当てはまることだと思うのです。
そして、そうなった原因は、「ゆとり教育」のせいだと思います。文科省が「ゆとり教育」を導入することで狙っていたものが、見事に成功したせいだということです。 文科省が「ゆとり教育」で狙っていたものについては、以前のブログでも書きましたが、本当にごく一部の人間だけが生き残っていくためのやり方なのだと言うことを改めて感じました。

このままではいけません。ことが大きくなる前に、なんとかしないとイケないです。そうでないと、日本が国家としての存続すら、危ぶまれる事態に陥りかねない状況になってしまう可能性もあるのではないかと思わざるを得ません。ただ、もし日本が本当に、国家としての存続が危ぶまれる事態に陥ることがあっても、現状の社会状況を考えると、それは自業自得なんだと思います。それで済ましてはいけませんが。

2010年10月26日火曜日

『日経ビジネスアソシエ』2010年11月2日・11月16日合併号

文房具好きにはおなじみの「決定版手帳術2011」が特集1ですが、今回は特集2の「「ジョブス流プレゼン」の極意」の方を取り上げます。

私も、手帳特集に惹かれて購入したのですが、手帳特集は真剣に読むというよりは、眺めて楽しむといった用途なので、ちょこちょこ見ていくので、ゆっくりなんです。おまけに、かなり長い期間にわたって眺めていきますので、特集を読み終わるころには、前の方に書いてあったことを忘れている(笑)ので、また再度眺め直す(笑)という方法で、次の『趣味の文房具』とかのエイ出版の雑誌などの文房具関連雑誌や本が出るの待つわけです(次は『ノート&ダイアリースタイルブック』5が11月5日に発売のようですね)。

それで、特集2のプレゼンの記事の方ですが、良く考えて見ると、教員が生徒に授業を行うのも、見方によってはプレゼンなわけです。というか、そういう感じでやると、おもしろいんじゃないかと思ったわけです。

STAGE1で、iPhoneの「セカイカメラ」を考えた井口尊仁氏の話が出ています。iPhoneユーザーではないので、「セカイカメラ」はよくわからないのですが、井口氏はプレゼンの鉄則として、

LOOK UP(上を見る) BELIEVE(信じる) STRUGGLE(戦う)

EXPOSE(さらす) IMAGINE(想像する) CHANGE(変える)

の6つを上げています。

「LOOK UP」:「セカイカメラ」のコンセプトで、「下を向いてパソコンをさわっているのではなく、外に出よう」という意味のようですが(つまり「書を捨てよ、町へ出よう」ってことですね)、プレゼンでも伝えたいことがあるかが大事で、伝えたいことを見つけたら、それを自分の外に向かって発信しようってことのようです。これはまさに、その日の授業で教員が生徒に伝えたいことを、生徒に向かって発信するってことに繋がるのではないかと思うのです。教員は生徒に伝えたいことをたくさん持っています。その意味では、「LOOK UP」はOKでしょう。

「BELIEVE」:自分がそれで本当に世界を変えられると信じているかどうか、ということのようです。自分が生徒に授業を通して、様々なことを伝えることで、未来を作っていくんだと信じているからこそ、すぐには結果がでず、自分たちの成果がわからないにもかかわらず、教員としてやっていけるのです。その強い信念がないと、授業も生徒には伝わりません。 

「STRUGGLE」:学校教育は日々、戦いだと思います。エネルギーの塊である若者(だから、時々無駄なエネルギーを発散するために、色々とやらかしてくれるわけですが(笑)でも、若いうちはそういう経験があったほうが良いと思います)と日々向きあっているのですから、生徒に勝つ必要はないですが、負けないようにしなければなりません。

「EXPOSE」:自分の胸の内をさらさないと、生徒も心を開いてはくれないということです。こちらが腕組みをして怖い顔で立っていれば、生徒だって萎縮してしまいますし、おべっかを使ってごまかそうとするでしょう。授業中だって、時間が終わるまでおとなしくしていれば良いと、ただひたすら時計とにらめっこでは、我々の伝えたいことは伝わりません。

「IMAGINE」:授業などでも、教員はどうしてもしゃべりすぎます。伝えたいことが多くてそうなるのですが、そんなに多くては当然覚えきれませんし、話を聞いているうちに、嫌になってしまうでしょう。教員がすべて説明するのではなく、生徒に想像力を働かせてもらい、考えてもらうために、できるだけシンプルにしたほうが良いでしょう。これは自分への反省でもあります(笑)

CHANGE:教員の指導を通して、生徒に変化を起こさせるのが大切です。勉強をしなかった生徒が、勉強をするようになる、遅刻ばかりの生徒が遅刻しないようになる、提出物を出さなかった生徒がきちんと期限どおりに出すようになる、このように変化してくれることが教員にとっては、自分がやっていることへの手応えになるわけですし、一つの評価にもなるわけです。

井口氏が提示している、プレゼンの6つの鉄則はこのようにすべてが学校教育で言い換えることができます。
日常のちょっとした思いつきや雑談の積み重ねが大事で、日々決戦。常にアンテナを張り、ヒントを求めて、人と対談し、仮説をぶつける。これらはプレゼンで大切なことですが、すべてが学校教育のなかで活用できるわけです。
ビジネスマンにとってプレゼンが大切なのは当たり前ですが、教員にも必要だという主張は、このような点から言っているのです。ジョブズの劇場型と称されるプレゼンを見ていると、ますますそう感じるのです。

この記事のEPILOGUEでは、「次は、あなたが「Imagine&Change」を起こす番だ!」と書かれています。教員もまさにこれだと思います。ジョブズ流プレゼン、学んでみる価値はあると思います。ジョブズのいくつかのプレゼンやスピーチの動画が見れるサイトも案内されていますので、動画も見てみると良いと思います。

2010年10月25日月曜日

『週刊金曜日』2010年10月22日 820号(その2)

(その1)に続き、(その2)として、横浜市で使用が始まった自由社版中学校歴史教科書の記事についてです。

そもそも何故、横浜市の教育委員は自由社版中学校歴史教科書を採択したのでしょうか?当然、これによって何らかのメリットが生じるのでしょうが、一体なんなのでしょうか(お金かなぁ)?そもそも、教育委員の見識ってどの程度のものなのでしょうか?正直言ってあやしいような気がしますが。

横浜市教職員組合による「中学校歴史資料集」に関しては、むしろこの忙しいなので、よく頑張っているなぁと思います。このような先生方の情熱があれば、自由社版の教科書でも、何の問題もないのではないかと思うのですが(楽天的すぎますか?)。
それよりも、これに対する義家弘介参議院議員(この方、いつの間にか議員になっていたんですね。)の批判は、その批判自身が「歪曲したイデオロギー」であり、「背信行為」なのではないでしょうか?義家氏ってこういう人だったんですね。北星学園余市高等学校をやめて、横浜市教育委員会教育委員に就任した頃からの関係なんでしょうけどね。まぁ、この人はこの人なりにやっているんでしょうけど、正直言って、歴史問題には素人ですね。発言するのなら、しっかり勉強してからにしたほうが本人のためだと思いますが。

そもそも自由社版の歴史教科書の問題は、記事にもある横山百合子帝京大学教授の指摘にある、

さまざまな「事実」の存在に目をつむり「物語」を主張するために、繰り返し「事実」を無視した誤りが生み出されている

という点なのです。教科書なのに、「事実を無視した誤り」があるなんて、そもそも教科書としては相応しくないわけで、イデオロギー以前の問題です。
文科省も「誤り」のある教科書を、よく検定をパスさせたものです。教科書検定制は何のためにあるのでしょうか?かつての家永教科書裁判の、「検定制度は、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」としている判決を逆手にとって、自由社版に「お墨付き」を与えているだけのように感じます。

「自由社版は、天皇中心の歴史観が強すぎ、日本に都合の良い記述が多い。この教科書だけでは、生徒に多面的な見方を身に付けさせることはできないので、他社の教科書も利用して独自プリントを作成し」ているという、取材を受けた横浜市の中学校教諭の言葉が記事には載っているが、これに関してはやや疑問があります。というのは、仮に他の教科書で教えたら、多面的な見方を身に付けさせることができるのでしょうか?正直言って中学生くらいでは、どんな教科書を使っても、教員の教える中身をそのまま鵜呑みにすると思います。もし仮に多面的な見方を身につけることができる生徒がいたとしても、それはほんのごくわずかでしょう。

歴史は、そもそもそれを語る人物のイデオロギーが含まれているものです。ただ、そのことを理解した上で、歴史を見る目を養わせる必要があるかと思います。
多面的な見方を身に付けさせたいのならば、自由社版とそれ以外の会社の教科書を数冊用意して、読む比べをしながら教えていくほうが良いと思います。あるいは、他の教科書と比べて、自由社版の教科書の記述の違いを生徒に読み取らせるほうが、問題点を指摘しやすいですし、よほど教育的効果が高いのではないかと思うのですが。
NIEでは、よく各紙の読み比べをして、メディアリテラシーの力を養ったりしているのですが、これを教科書でやれば良いのです。教科書といえども書籍なわけですし、自由社版の教科書を逆手にとって、いわゆる反面教師的教科書として扱えばよいのではないでしょうか?

それに、文科省の「教科書観を変える」という発想、つまり教科書に載っていることを「必ずしもすべて取り上げなくてもよい」のならば、間違っていたり、偏っていたりする部分はその教科書を使って取り上げるのは、やめてしまえば良いのではないでしょうか? 
「教科書を教える」のではなく、「教科書で教え」てしまえば、自由社版の教科書は、むしろ格好の教材だと思います。