2011年9月4日日曜日

宇野常寛インタビュー  「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ、社会への想像力を拡張するために」

SYNODOS JOURNALに、8月20日に4回にわたって掲載されてものです(第1回目のリンク先はこちら)。
宇野氏が7月に『リトル・ピープルの時代』を刊行されたのに合わせて行なわれたインタビューで、当然本の宣伝も兼ねているのでしょうが、3.11以降の宇野氏の思考が大変興味深いので、紹介します。

インタビューの中で、『リトル・ピープルの時代』は、

1968年的な問題意識がもう賞味期限切れになっていて、9.11以降はまったく通用しないんだということを基本的な枠組みとして訴え」るために、

9.11以降、要はグローバル/ネットワーク化の時代を考えるときに、奇形的進化をとげた日本的、あるいは東アジア的ポップカルチャーが提出したイメージがきわめて大きなヒントになる、ということで自分の普段の仕事、つまり同時代的なポップカルチャー分析に結びつけるというのがコンセプトにな」り、

村上春樹とヒーロー番組の対比で、現代における「暴力」の問題を扱うというコンセプト」になったと語っています。

そのようなコンセプトの『リトル・ピープルの時代』の「まとめ」部分を書いているときに、「3.11」が起こったのだそうです。それ以降、「書きかけの本と震災についてずっと考えていた。そしてある日、すべてが自分のなかでつながったんです。震災への考察を主軸にすることで、全体を貫くメッセージを決定的に強化できるな」と気づき、原稿を最初から書き直しということです。

私が宇野氏の考えのポイントだと思うのは、次の部分です。

ぼくは震災が何かを変えたというよりは、震災のせいで既存の構造が露呈し、進行中の状況が加速したと考えているんですよね。原発の問題も、東北の問題も考えてみれば2011年に急に発生したわけじゃない。

それに、「物語批判か、物語回帰か」といった自意識的な議論は国内では90年代に決着がついている。だからこそ、ゼロ年代はプレイヤーの態度や内面ではなくてゲームシステム、つまりアーキテクチャの問題が浮上した。国内においては80年代が物語批判で、90年代がその反動としての小さな物語回帰の時代だった。物語批判に留まれ、という態度自体も含めて(小さな、即自的な)物語回帰しかなくなってしまった。だからゼロ年代はそんな小さな物語たちの関係性の問題だけが残されたわけですね。だからこそアーキテクチャの問題が浮上した。人間はどれだけ留保をつけてアイロニカルに振る舞おうが、最終的にはもう信じたいもの信じて、小さな物語回帰するしかないので、あとは彼らがコミュニケーションをとる環境を操作するしかない。たとえば、教室で喧嘩が起こったときに、各々の生徒を説得するんじゃなくて学級制度自体をいじって(選択制にするとか)解決するという発想ですね。

だから「3.11以降、ぼくらは世界のことを考えざるを得なくなった」的な言説は端的に間違っていると思う。思想的にじゃなくて事実関係的にね。震災が何かを変えた、というよりは震災はこれまで隠蔽されてきた既存の構造を暴き、僕たちに突きつけた、というのがぼくの考え。
 」

つまり、「震災が何かを変えたというよりは、震災のせいで既存の構造が露呈し、進行中の状況が加速した」、「震災が何かを変えた、というよりは震災はこれまで隠蔽されてきた既存の構造を暴き、僕たちに突きつけた」という部分です。

実は、「3.11」以降、8月21日までは「震災によって、何かが変わる」のだと思っていました。
しかし、8月22・23日「先生のための夏休み経済教室」で、日大の中川雅之教授の講義や、政策研究大学院大学の大田弘子教授の「日本経済の現状、地震・津波・原発事故を超えて」の講演で、被災地の話を聞き、「震災が何かを変えたのではなく、震災のせいでこれまで隠されていた問題が明らかになった」のではないかということを考え始めていました。

また、『経済セミナー』No.661号に掲載されている、一橋大学の齋藤誠教授の「震災前から震災後を考える:石巻を歩いて」で、

「 今般の大地震は、震災前の経済環境をリセットしたわけではなく、むしろ、震災前から生じていたダウンサイジングを加速させていく側面がある。当然ながら、震災からの復興は、震災前の経済条件に強く縛られていく。

“不安”とは、「震災前からあった深刻な経済問題」が、「震災のために新たに生まれた経済問題」にすり替えられて、大規模な経済政策が発動されるのではないかと懸念したからである。


「 ピースボートなどのボランティア団体がキャンプをしている石巻専修大学のグラウンド風景は、とりわけ印象的であった。東京や大阪から来た若者は、風呂にも入らず、自炊をしながら、日々、ボランテイア活動に汗を流していた。その一方で、地元の若者は地元の大学に通い、グラウンドで陸上競技に汗を流していた。

経済学者としての私には、こうした風景の多様性を肌で感じることができたことが何よりもありがたかった。東京に住む私たちは、大津波で無残な姿となった日本製紙の石巻工場の写真から受ける強烈な印象だけで、大胆な経済政策を発送してしまいがちだったからである。


という文章を読み、まさにここにあるような問題に気付き始めたのです。

しかし、何かすっきりとしませんでした。それが何なのか、よく分からなかったのですが、宇野氏のこの言葉で自分の中ではっきりとしたのです。

要するに今回の地震や原発事故で人びとを戸惑わせているのは、とくに後者についてうまくイメージ化できないからだと思うんですよね。

現在の言論空間、文化空間の混乱の背景にはこれまでの想像力ではイメージ化できない巨大な力への不安があるんだと思うんですよ。

疑似人格(ビッグ・ブラザー)化できない「壁」、つまり世界の構造というのがこの本のテーマなんですよ。だから福島の問題について考えることが決定的な補助線になった。原爆的ではなく原発的なものをどう考えるかは、ぼくにとってはビッグ・ブラザーではなくリトル・ピープルについて考えることだったわけです。その辺はぜひ本を読んでほしいと思う。

それで、当然『リトル・ピープルの時代』、買いに走ってしましました(^_^;)まだ読んでいませんが。


もう一つ、宇野氏のインタビューの中で興味深いのは、「この本は見田社会学の文学性をどう抽出するかというのが裏テーマのひとつになっている」と語っている点です。

「政治と文学」の新しい関係を、現代のポップカルチャーの想像力を援用すればもっとはっきりかつ、しっくりする概念で記述できるんじゃないのかということを考えた。それが「拡張現実の時代」ですね。「虚構の時代」は、今考えると「仮想現実の時代」なんですよね。だからオウム真理教とか、架空年代記(ガンダム)とか最終戦争(エヴァンゲリオン)が代表的なその時代の想像力に用いられる。だとすると、「虚構の時代」の次にくるのは「拡張現実の時代」じゃないかと考えたわけです。そして「拡張現実の時代」的な想像力がまさに、現代日本のポップカルチャーを席巻している。AKB48もニコニコ動画もソーシャルゲームも全部そう。

この「拡張現実」をキーワードに新しい「政治と文学」の関係を記述できるんじゃないのかというのが、この本の最大のアイデアなんですよ。それがなぜ「震災」で思いついたのかというと、たとえば鶴見済が『完全自殺マニュアル』で「もうハルマゲドンはこないし、原発は爆発しない」といっているんです。つまり世界はもう変化しないのだから自分を変えるしかない、その究極のかたちが「自殺」なんだと煽っているわけです。

でも原発は本当に爆発してしまった。けれど、それで大きな物語が帰ってきたかと思うと、そんなことはないわけです。原発が爆発したからといって、誰もが生き生きと元気に大きな物語を共有し出すかというと、そんなことはないでしょう。そう思い込みたい東京の左翼文化人はいてもね。実際には国民が大きな物語を共有してひとつになるというよりは、むしろ物語のレベルでの分断が起きてしまっている。関西や北海道はもちろん、被災地と関東のあいだにもかなり空気が異なっているのは明らかでしょう。むしろ原発が爆発しても大きな物語が機能しないことが明らかになってしまった。

いまだに忘れられないのが4、5月の東京の空気で、いつ余震があるかもわからないし、放射能情報も刻一刻と変わっていくんだけど、日常は否応なく回復して、みんな当たり前のように仕事をしているし、当たり前のように消費生活をしていると。にも関わらず、所々でノイズのように地震速報とか、放射能という「みえない脅威」がぼくらの日常を半歩ずらしていく感覚。そういう感覚をずっと考えていたときに、これって原発が爆発した瞬間に最終戦争だとか大きな物語が復活したもういっこの未来・世界にいくのではなくて、現実が変革ではなく拡張したという考え方をした方がぼくにはすごく合ったんだよね。


ぼくは世界の変革をあきらめて想像力を封じ、現実を受け入れろといっているんじゃないんです。オールドタイプの思考法では、革命か、革命を仮構する仮想現実の構築だけが現実批判であり想像力の行使だということになっている。けれど、21世紀のこの世の中にそんな馬鹿なことがあるわけがない。拡張現実的な想像力による現実の多重化こそが、このグローバル化、ネットワーク化を成し得た現代においてはもっとも有効な現実への対峙であり想像力の行使だといっているんです。世界の構造が変化しているんだから、当然人間の構造に対するアプローチ、壁と卵の関係、政治と文学の関係も変わってしまう。20世紀的な「革命」思考に縛られている人が、まあ、仕方ないけれど40代以上に多すぎると思いますけどね、単純に考えて。

まさに、自分の思考は「オールドタイプ」でした。「拡張現実的な想像力による現実の多重化」の言葉は、目からウロコでした。
そして、「当たり前のように仕事をしているし、当たり前のように消費生活をしていると。にも関わらず、所々でノイズのように地震速報とか、放射能という「みえない脅威」がぼくらの日常を半歩ずらしていく感覚」が、自分にとって「得体のしれない何かだった」ということを感じたのです。

ただ正直言って、このインタビューが十分に理解できているわけではありません。特にゲームの話題はよくわかりません。
ただ「前田敦子個人の内面や身体性に本質はなくて、彼女のポテンシャルを120%以上引き出すAKB48というゲームシステムに本質がある。大きな物語的には国民的アイドルはもう成立しないけれど大きなゲームとしてなら成立する」という話はなんとなく理解できます。

ぼくがこの本で取り上げた表現の多くが、上の世代の人たちには表現「未満」のものだと思われてしまっている。なぜかといえば、表現がコミュニケーションの一部になっているからですね。それが情報化ということなんだけれど、文学が情報の一ジャンルになって、コミュニケーションの一部になって、現実の一部になって、虚構として独立していないからダメだと。でもね、そうじゃないんですよね。現実の、情報の一部になって、情報の下位カテゴリーになっているからこそ発生する快楽というのが存在するんですよ。この新しい世界を視野に入れたとき、はじめて革命モデルとは違う社会変革のモデルだってみえてくる。革命からハッキングへ、文学から情報へっていうのはまったく同じことなわけです。ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ、ウルトラマンから仮面ライダーへでもあるわけだけど(笑)。

40代ですけど、「革命モデルとは違う社会変革のモデル」を見たいわけです(^_^;)

ですから、なおさら自分にとっては、『リトル・ピープルの時代』はしっかり読まないといけない本だなぁと思っています。ちゃんと読んだら、このブログに感想を書きたいと思います。



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