2011年8月21日日曜日

斜めからみる「日本のポストモダン教育学」

シノドスジャーナルに、2回にわたって掲載された明治学院大学社会学部教授稲葉振一郎氏の論考です(第1回は8月12日、第2回は8月15日)。

この論考は、タイトルにあるように、日本における「ポストモダン教育学・教育思想」の「正史」を描こうというのではなく、「正道をたどる前にその下準備として、ごく少数――具体的にはたった二人の論者の仕事を概観することによって、問題状況の大雑把な見取り図を描くことを目指す。すなわちこの「教育学におけるポストモダニズムのエスタブリッシュメント化と去勢」のプロセスを一身に具現化したかのごときキャリアをたどった一人の研究者と、その反対に、アヴァンギャルドな流行としてそれなりの注目を浴びた「ポストモダン教育学・教育思想」と、少なくとも表向きはまったく没交渉にすごしたもう一人の研究者、この二人の教育学者をクローズアップすることによって、日本教育学におけるポストモダニズム受容の可能性と限界を描き出したいと思う。」というもので、私にとって「斜めからみる」というそのポジションがおもしろく、かつ勉強になりましたので、紹介したいと思います。

第1回は、東京大学教育学部森重雄の「批判的教育社会学」に関する論考です。
「批判的教育社会学」とはどんなものであるかというと、「「教育」というカテゴリーを「学校」に先行させ、「学校」を「教育」を行う機関として位置づけるのとは逆に、具体的な制度・施設たる「学校」をこそ、抽象的な理念・イメージとしての「教育」に先行しそれを生み出しつつ、そうした因果関係それ自体を抹消して「教育」を自明化する「教育システム」の中軸とみなす」営みであるということです。

そして森が看過している問題は、「教育の自明化」と「近代の特権化」であるとし、「「近代性」の学としての社会学は、恣意的という意味で「自由」な選択として「近代性」を対象とするわけではない。社会学は否応なく「近代性」の一部なのであり、むしろ社会学とは「近代性」によって語らされているのである。むろん誰しもが「近代性」によって語らされているのであり、社会学とはせめてそうした拘束を自覚しようという運動である。そのような意味での社会学の一環としての「批判的教育社会学」においては、「教育」という対象もまた当然、恣意的という意味で「自由」に選ばれているのではない。われわれは好むと好まざるとにかかわらず「教育」によって規律訓練され、「教育」によって語らされているのであり、「教育」から自由ではありえないのだ。」としています。

第2回は、職業訓練大学校佐々木輝雄の「職業教育」に関する論考です。

二人目として佐々木が取り上げられているのは、「彼の直面していた課題は、私見ではまさしく「ポストモダン」状況下での職業教育の可能性そのものであった。そしてそれはある意味で、森の入り込んだ隘路に対するひとつの処し方を例示するものでもあったのである。」ということで、職業教育に関して考察しています。

佐々木の最晩年の講義「職業訓練の歴史と課題」から、佐々木が「公共職業訓練がマージナルな存在であり、そのようなものでしかありえないことを認めてしまっている。学校教育の中心が職業教育ではなく普通教育であり、職業訓練の中心が企業内訓練であること、労働市場と学校教育とはそのようなかたちでそれなりの均衡をつくり上げてしまっていること、それゆえに公共職業訓練とは、そこから零れ落ちる弱者の救済の仕組みでしかありえないことを認めてしまっている。」ことを読みとっていますが、佐々木の「職業訓練の歴史と課題」は、ここで取り上げられている部分だけでも、かなり勉強になる内容で、その意味では、個人的に佐々木輝雄という教育学者を取り上げていること自体に、大きな意義を感じました。

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